嘔吐人文書院このアイテムの詳細を見る |
嘔吐という概念は、『存在と無』のなかでまた詳しく述べなおすことになるがここでこの小説の中での嘔吐、または実存ということを見ていこうと思う。
この小説は、以前も何度か触れたと思うが、サルトルが戦争を経験する前、つまりドイツ群の捕虜となり、その考えに希望というスパイスを加味する前のものである。
つまり、人生というものを実存することと捉え、
実存は、ただそこに現れ在ること、現存することと捉えることというように解釈されている。
実存観を支えるものとしてこの小説の中では、
①他者との関わり
⇒これは男性とは、いわゆるコミュニケーションという領域にいてであり、女性とは、セックスという甘美なものを通して行われるものである。
②就労<働くということ>
⇒主人公であるロカンタンは、ド・ロボンヌ侯爵の本を完成させるという「自己実現」の目標が潰えたとき、独学者との会話に、女性との関係にひびが生じてきたいるように思える。
つまり、働くということ事態が実存観を安定させ、そのロカンタンという「人」が一人になることを防いでいるのである。
実存観を支えるものとして、働くことが挙がっていることは、後に『希望格差』の項で述べることにして、ここでは、実存ということについて考察をしてみよう。
さて、「現存」とは、いわばそこにただ存在する、実存することなのだが、そのクオリア<質感>は、「まったくぶよぶよであり、なんにでもべたつき、厚ぼったくてジャムのよう」(219項)であり、「汚い」(220項)ものでもあり、その発生原理というか、そもそもただ在ることが発生するというのはおかしい著述になってしまうが、
サルトルをして、
「暖かい静かな寝室で、気持ちよいベッドに眠っていた男は、蒼みがかった土地の上、陰茎の森の中で素裸で眼を覚ますだろうジェクストプーヴィルの煙突のような空に向かって突出している、微かに鳴っている赤や白の陰茎の森には、玉葱のように毛むくじゃらで球根の在る、半ば地上に出ている巨大な睾丸がある。また、鳥どもがこの陰茎の周りを飛び交い、嘴でつきさして血が流れでるだろう。あるいは、こうしたことはなにひとつ起きないだろう」(261項)
と言わしめているように、
人がそこに回帰をしようと試みる場では在るが、実際は在るのかも分からないというような場所であり、その状態というのは入れ組んでおり、どろどろしたもので在るということができるのではないだろうか?
そして、「嘔吐」なるものは、この実存という事実、エロティックであり、その実存観を支えるもの、言い換えるなら、実存というものがただそこに在るというだけで、またその在るということ事態が、それだけでは成り立たないという不条理に触れることで引き起こされる状態のことなのである。
①と②がそれぞれ独立して実存を支えているということではなく、それぞれが交差することで相互に影響を及ぼしあい、実存という不条理から救出をはからさせてくれるのである。
ロカンタンは、ある女性とのセックスの最中に、
「私はド・ロルボン氏のことを考えていた。要するに、彼の生涯を題材にして私が小説を書くことを、何が妨げているのか。マダムの脇腹に沿って私は腕を無意識に動かした。すると、ふいに幅のある低い樹木がたくさん植わっている小さな庭を見た。樹々からは毛で蔽わわれた大きな葉が垂れ下がっていた。いたるところを蛾や百足が這い廻っていた。」(97項)
といったことを着想している。
これは単純に、女性器の描写ということもできる(後に取り上げるマラルメにも同様の描写で女性器を暗示させる箇所がある。)
しかし、小説の創作と絡められて叙述されていることからも明らかのように、性と創作ということが関連付けられ止揚されているといえる。
これは、ここでは省くが独学者との図書館での対話にも同じことがいえるのである。
この『嘔吐』という小説において、『存在と無』の大きなトピックの一つでもある
「無の問題」がほぼ述べられていないに思えるのは、サルトルの思想の変遷として今後の検討課題となる。