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論拠・主張

論証=事例、引用。

中間集団 :松山情報発見庫#341

2005-11-29 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く

筑摩書房

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著者は、1990年代頃(以下、著者の言葉遣いに会わせ、現代)までは、個人と社会の間で個人の選択へのリスクヘッジとなってきたものとして「中間集団」というものを挙げている。
これは、日常の中では、
家族、親族、企業、労働組合、コミュニティーなどである。
これは、家族、親族もしくはコミュニティーというものなら、離婚をしてしまったり、親が病気になってしまった場合に、援助をしてくれていたが、これがニュータウンの発達による地域とのコミュニケーションの希薄化や、核家族化による広く親族との交流することの希薄化により弱体化してしまったということである。
また、起業、労働組合ならば、ここでも何度か述べているので詳しく述べることはしないが、現代に入り、市場原理主義的な性格を強め、これまでは、頑張って働き続ければ、給料は上がり、昇進のチャンスもあったのが、今では、そうではなくなってしまったというものだ。

この中間集団(本書の中では、「希望」について述べられている中で登場する)というのを、著者は、思想史的にも俯瞰している。
まずは、これを西洋について見てみよう。

[努力が報われるための宗教の機能]
西洋では、前近代においては、親から職業を告ぐというのがあり、貧しく生まれ育ったものは、そのまま貧しい状態に在るということがあった。そのために、宗教が、来世で救われるためには、道徳的によい行いをすることが必要だとして、民衆に希望を与えた。

[マックス・ヴェーバー的現世努力]
宗教の力が宗教改革などを経て弱まっていくと、ヴェーバーの「資本主義の精神」のように、貧しい状況、苦しい状況にあっても、勤労という行為を精進することですくわれるという概念が広まっていった。

[マルクス的造反]
実際は、努力したところで報われない人が多くいる。このような状況を打破するには、資本化への造反で労働者も豊かな生活を獲得できるとした。

続いて、日本における思想的な「中間集団」について見てみよう。
この日本の思想的な中間集団については案外シンプルに述べられている。
戦前までは、帝国主義的世界の中で日本が欧米に追い越すことで存在意義を見出すということに民衆は意義を見出していた。
戦後においては、それが「広い住宅、家電新製品」(199項)、子供の学歴などに代表されるように、「豊かな家族生活」(同)を築くことを目指し人々は労働に邁進した。
しかし、これが選択に伴うリスク化、中間集団の弱体化により希望が見出しにくくなってきた。

これは、「人間にとって職業(仕事)のもつ意味」(101-103項)において①経済的に豊かな生活をするために不可欠なものとしての人類史上の共通の目的としての仕事②アイデンティティーを支えるためのものとしての仕事という二つの仕事の持つ意味の両方を危機に晒しているといえる。
これまでは、OJTなどによりただ企業の中でいるだけで自らの能力は開発され、キャリアも積み重なれていくということがあったが、それが現代になっては、自ら選択をとおして「社会の中で役に立っている」「社会の中で必要とされている」(102項)という実存感の補完を自らの自己責任において為さなくてはならなくなったからである。

次に、ここまで述べてきたような状況を引き起こすことにつながったと著者が分析している「1998年問題」ともいうべき問題について見てみようと思う。
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