<続き>
<ウィアン・ブア陶磁>
●サンカンペーン陶磁との関連(2)
Kriengsak Chaidarung氏は、次のように著述しておられる。「これまで挙げた項目以外に、興味深い考古学上の証拠がある。それは、ワット・チェンセーンで見つかった石碑で、この寺院は碑文により「ワット・サーラガラヤーンマハンタラーム」という別名もあることが分かった。この寺院はパトゥン集落内にある重要な遺跡である。
碑文の内容は次のようになる。シーサッタタムマングーン王⑫、ディラーチャーティラート侯⑬は、チェンマイのムアンピンを統治し、アティチャワヤーンバウォンシッティという名の一人の大臣をムーンダープルアン⑭とし、仏暦2034年(西暦1491年)にムーンダープルアンは、「プーラオの人々」と共にワット・サーラガラヤーンマハンタラーム⑮を建立し、様々な寺院から僧侶を招いて祈願し、この寺院の支持者とした。
ここでわかるのは、「プーラオの人々」は、ウィアン・ブア窯群から移ってきたパヤオの人々の集団のことである。彼らはサンカムペーン窯群で陶業を盛んにして、大きな寺院を建立するほど豊かにし、ワット・サーラガラヤーンマハンタラームに多くの米や黄金を寄付したということである⑯。碑文には、「プーラオ」と書かれているが、これはおそらくその土地での言い方の違いのためだと思われる。古代の文書でよく見られるのは、例えば「パヤオ」という言葉だと、パヤオの町の石碑には「パヤーオ」と書いてあるのを見ることができる。チェンマイの歴史書には、「プーヤーオ」または「プーヤオ」とある。よって、碑文を刻んだ者は、口頭での音に従って綴ったと考えられ、よってこの言葉は、パヤオを意味すると考えられる。
ワット・チェーンセンの仏像の台座の碑文には、ジャオムーンガンヤーンダープルアンが仏像を作成しこの寺院に寄進したとある。よって、パヤオ国主のジャオセーンガンヤーンと同一人物である可能性がある。もしこれが事実であるならば、ジャオムーンガンヤーンダープルアンは、仏暦2039年(西暦1496年)ムアンゲーオ王の時代に、パヤオを統治する「ジャオセーン」の地位をチェンマイ王朝から与えられたことになる⑰。
チェンマイ王朝から賜るパヤオ国主の地位は重要で、チェンマイ王朝からの信頼を得なければならなかった。例えば、サームファムケーン王の時代、養育した叔父をジャオシームーンパヤオとし、ティローカラート王の時代には、かつてのジャオムアンソーンクウェームであるプラヤーユッティティラがジャオシームーンパヤオになっている。
いずれにせよ、上記のことは推測であり、広く議論されなければならない・・・と結ばれている。
Kriengsak Chaidarung氏は推測と記述されている。その通りの印象を持つ。何か言葉遊びの印象である。ここで、これらの地名をタイ語表記(残念ながら中世の文字ではなく、現在のタイ語表記であるが)すると以下となる。
現在のタイ語は4声である。中世もそうであったろうと思われ、抑揚を持つ言葉であった。パヤオとパヤーオの聞き間違いや、転写違いは考えられるが、どう間違ったとしてもプーラオがパヤオにはならないであろう。それを考えるとKriengsak Chaidarung氏の記述内容には、多少なりとも疑問を持つ。
当件に関して別の識者は、以下のように述べている。“ワット・チェーンセンには、中世のミャンマーで繁栄した、ピュー族の古都・プロムに多いプロム・タイプのストゥーパが建立されている。そこで発掘された碑文(石碑)には、スコータイ古文字でワット・チェーンセンを1488年の建立と記されている。更に1491年に建立された石碑には、ムーンダープルアンは1488年プーラオの人々を集め布薩堂、チェディー、経蔵を建立したと刻文されている。ここでプーラオとはチェーンセン領内の地名である”・・とある。チェーンセンにプラーオなる地名が存在するかどうか調べたが、判然としない。
更に、Kriengsak Chaidarung氏説の疑問は、時代背景が大きく異なることである。前記ワット・チェーンセン云々の話は、15世紀末のことであり、パヤオ→サンカンペーンは13世紀末から14世紀初頭のことである。
写真は、ワット・チェーンセンのプロム・タイプのストゥーパで、古色蒼然としている。ビルマ陶工の関与も検討すべきであろう。
いずれにしても若い気鋭の研究者に、解明していただきたい課題の一つである。
上の写真は、過去東南アジア古窯址調査会がサンカンペーン・フェイバックピーン古窯址から採集した盤片であると、同調査会発行私家本に記載されている。この盤片の印花魚文をスケッチすると、以下となる。
赤く描いているところは、文様が不鮮明ながらも想像して描いたものである。腹側の鰭が2箇所、背側の鰭が1箇所は、パヤオの印花魚文の最大の特徴であり、鱗の表現もサンカンペーンで見られず、パヤオで見る特徴である。更に尾鰭のデザインもパヤオのもので、サンカンペーンの魚文では見ないものである。つまり、この出土事例をみれば、パヤオの陶工がサンカンペーンに移動したことは事実であろう。
注釈
⑫ チェンラーイの国主
⑬ チェンマイの諸侯
⑭ 称号名
⑮ 現在はワット・チェーンセンと呼ぶ
⑯ ワット・サーラガラヤーンマハンタラーム建立には高額の費用がかかっ
た。仏塔の建立14,600ビア(貝貨)、礼拝堂の建立11,700ビア、経堂の建
立11,000ビア、経典20,000ビア、経典を包む布1,000ビア、仏像の鋳造費5
体6,000ビア、食事10セットのためのお金の献上3,000ビア、財産、土地
の移譲、総額540,000ビア、寺院への献上のための奴隷購入 25家族78
人 20,560ビア、寺院の祭礼のための献金52,000ビア
⑰ パヤオの碑文には、「ジャオセーンガンヤーン」と名前が明記してあ
る。仏暦2039年(西暦1496年)よりパヤオの国主であった。
<続く>
<ウィアン・ブア陶磁>
●サンカンペーン陶磁との関連(2)
Kriengsak Chaidarung氏は、次のように著述しておられる。「これまで挙げた項目以外に、興味深い考古学上の証拠がある。それは、ワット・チェンセーンで見つかった石碑で、この寺院は碑文により「ワット・サーラガラヤーンマハンタラーム」という別名もあることが分かった。この寺院はパトゥン集落内にある重要な遺跡である。
碑文の内容は次のようになる。シーサッタタムマングーン王⑫、ディラーチャーティラート侯⑬は、チェンマイのムアンピンを統治し、アティチャワヤーンバウォンシッティという名の一人の大臣をムーンダープルアン⑭とし、仏暦2034年(西暦1491年)にムーンダープルアンは、「プーラオの人々」と共にワット・サーラガラヤーンマハンタラーム⑮を建立し、様々な寺院から僧侶を招いて祈願し、この寺院の支持者とした。
ここでわかるのは、「プーラオの人々」は、ウィアン・ブア窯群から移ってきたパヤオの人々の集団のことである。彼らはサンカムペーン窯群で陶業を盛んにして、大きな寺院を建立するほど豊かにし、ワット・サーラガラヤーンマハンタラームに多くの米や黄金を寄付したということである⑯。碑文には、「プーラオ」と書かれているが、これはおそらくその土地での言い方の違いのためだと思われる。古代の文書でよく見られるのは、例えば「パヤオ」という言葉だと、パヤオの町の石碑には「パヤーオ」と書いてあるのを見ることができる。チェンマイの歴史書には、「プーヤーオ」または「プーヤオ」とある。よって、碑文を刻んだ者は、口頭での音に従って綴ったと考えられ、よってこの言葉は、パヤオを意味すると考えられる。
ワット・チェーンセンの仏像の台座の碑文には、ジャオムーンガンヤーンダープルアンが仏像を作成しこの寺院に寄進したとある。よって、パヤオ国主のジャオセーンガンヤーンと同一人物である可能性がある。もしこれが事実であるならば、ジャオムーンガンヤーンダープルアンは、仏暦2039年(西暦1496年)ムアンゲーオ王の時代に、パヤオを統治する「ジャオセーン」の地位をチェンマイ王朝から与えられたことになる⑰。
チェンマイ王朝から賜るパヤオ国主の地位は重要で、チェンマイ王朝からの信頼を得なければならなかった。例えば、サームファムケーン王の時代、養育した叔父をジャオシームーンパヤオとし、ティローカラート王の時代には、かつてのジャオムアンソーンクウェームであるプラヤーユッティティラがジャオシームーンパヤオになっている。
いずれにせよ、上記のことは推測であり、広く議論されなければならない・・・と結ばれている。
Kriengsak Chaidarung氏は推測と記述されている。その通りの印象を持つ。何か言葉遊びの印象である。ここで、これらの地名をタイ語表記(残念ながら中世の文字ではなく、現在のタイ語表記であるが)すると以下となる。

当件に関して別の識者は、以下のように述べている。“ワット・チェーンセンには、中世のミャンマーで繁栄した、ピュー族の古都・プロムに多いプロム・タイプのストゥーパが建立されている。そこで発掘された碑文(石碑)には、スコータイ古文字でワット・チェーンセンを1488年の建立と記されている。更に1491年に建立された石碑には、ムーンダープルアンは1488年プーラオの人々を集め布薩堂、チェディー、経蔵を建立したと刻文されている。ここでプーラオとはチェーンセン領内の地名である”・・とある。チェーンセンにプラーオなる地名が存在するかどうか調べたが、判然としない。
更に、Kriengsak Chaidarung氏説の疑問は、時代背景が大きく異なることである。前記ワット・チェーンセン云々の話は、15世紀末のことであり、パヤオ→サンカンペーンは13世紀末から14世紀初頭のことである。

いずれにしても若い気鋭の研究者に、解明していただきたい課題の一つである。



(黄褐色のサンカムペーンの盤。チェンマイ県オムコイ郡メーティン村にて出土)

(緑がかった褐色釉のサンカムペーンの盤。双魚文がスタンプされている。チェンマイ県オムコイ郡メーティン村にて出土)
注釈
⑫ チェンラーイの国主
⑬ チェンマイの諸侯
⑭ 称号名
⑮ 現在はワット・チェーンセンと呼ぶ
⑯ ワット・サーラガラヤーンマハンタラーム建立には高額の費用がかかっ
た。仏塔の建立14,600ビア(貝貨)、礼拝堂の建立11,700ビア、経堂の建
立11,000ビア、経典20,000ビア、経典を包む布1,000ビア、仏像の鋳造費5
体6,000ビア、食事10セットのためのお金の献上3,000ビア、財産、土地
の移譲、総額540,000ビア、寺院への献上のための奴隷購入 25家族78
人 20,560ビア、寺院の祭礼のための献金52,000ビア
⑰ パヤオの碑文には、「ジャオセーンガンヤーン」と名前が明記してあ
る。仏暦2039年(西暦1496年)よりパヤオの国主であった。
<続く>