<続き>
<パヤオと中国陶磁>
●磁州窯との関係(1)
一旦パヤオを離れて見てみたい。中国からタイへ、陶磁に関する技術伝播を示す資料として、識者の多くは下記の見解を示している。それは、元史とそれに関連するタイの年代記集成の記述についての、考察に関する見解である。
先ず、元史から確認したい。
元史巻十八:成宗(一)①
至元三十一年・・・秋七月壬子、・・・詔招諭暹國王敢木丁來朝、或有故、則令其子弟及陪臣入質
スコータイ朝が元に入貢したことについて、上記のように記録されている。すなわち“詔諭の詔によりスコータイ朝の敢木丁(カムラテン)国王が来朝したが故あって、その子弟と陪臣に謁見の令を与えた”。
ここには、中国陶磁の技術がスコータイに伝播することに関して、一言の言及もない。この至元三十一年とは、西暦1294年である。当時のスコータイ朝は、ラームカムヘーン王(在位:1279-1300年)の治世で、その版図はスコータイ朝を通して最大を誇った。
ところがこれに関し、タイ側に以下の資料が存在する。それは19世紀にラーマ5世の異母弟であるダムロン親王が、編纂したと云われている、「タイの年代記集成」である。その第1部に以下の記述があるという。
それは、“1294年の第1回入貢の時、帰国する翌年に50名ほどの磁州窯系の陶工をつれて帰ったこと、1300年には第2次使節団が、龍泉窯の陶工・家族を含めて500人をタイに招致した”・・・という伝承である。
これをもって多くの識者は、そのようにして技術伝播したと見解をのべているが、その信憑性はどうかとの疑問が残る。つまり、13世紀末の事績を19世紀に成文化したわけだが、どこまで真実を伝えているのか?
スコータイと元との関係は、スコータイが入貢することにより、比較的良好な関係にあったようである。(以下、蛇足ではあるが、八百息婦(ランナー)と元との関係については、元史巻17、19、20、21、23、24、61、63、99にランナーへの元の南征、巻25、30、32、33はランナーから元への朝貢が記録されているが、陶磁技法や陶工の移動に関する記述は皆無である。)
別の識者によれば、元寇の南下圧力により磁州窯の陶工が難を逃れ、吉州窯や広東、安南を経由してタイに至った・・・と云う。更に馮先銘氏は吉州窯の鉄絵を「靖康の変」②(つまり元寇に遡る時代)に際して、磁州窯の陶工が江西省に逃れ、釉下彩絵の手法を伝えたというのは、非常に可能性のあるところだと云う。
これらの説については、同時代資料に記述がないことから、当該ブロガーとしては、荒唐無稽とは言わないまでも、疑問であろうとの立場に立っていた。しかし、パヤオを訪問し、博物館で展示品を実見し、窯址に立って陶片を収集し、書籍「陶磁器・パヤオ」を読むに至り、立場の変更を余儀なくされている。
(元寇の南下に押され、磁州窯から吉州窯へ、その影響を受けたであろう鉄絵を有する磁竃窯、廉江窯、海康窯、更には安南のチューダオ窯とパヤオの位置関係を示した。鉄絵技法は安南山脈を越え、ラオスを経由して北タイにもたらされたであろうか?)
スコータイ、シーサッチャナーライの鉄絵文様は、磁州窯の影響であると、多くの識者が指摘している。その詳細は省略し、タイ北部窯への影響を次回以降検討したい。
注)
① 成宗 元朝第2代皇帝
(出典:ウィキペディア)
② 靖康の変:1126年宋(北宋)が女真族国家の「金」に敗れて、華北を
失った事変、靖康は当時の宋の年号
参考文献)
・東南アジアの古美術 関千里著 めこん社
・ベトナムの皇帝陶磁 関千里著 めこん社
・上智アジア学第11号所収・ベトナムの貿易陶磁 森本朝子著
・磁州窯陶瓷 王建中著 二玄社
・中国の陶磁第7巻 磁州窯 長谷部楽爾著 平凡社
・世界陶磁全集13巻 遼・金・元
・陶磁大系47 タイ・ベトナムの陶磁 矢部良明著 平凡社
・日本出土の中国陶磁 長谷部楽爾著 平凡社
・元史
<続く>
<パヤオと中国陶磁>
●磁州窯との関係(1)
一旦パヤオを離れて見てみたい。中国からタイへ、陶磁に関する技術伝播を示す資料として、識者の多くは下記の見解を示している。それは、元史とそれに関連するタイの年代記集成の記述についての、考察に関する見解である。
先ず、元史から確認したい。
元史巻十八:成宗(一)①
至元三十一年・・・秋七月壬子、・・・詔招諭暹國王敢木丁來朝、或有故、則令其子弟及陪臣入質
スコータイ朝が元に入貢したことについて、上記のように記録されている。すなわち“詔諭の詔によりスコータイ朝の敢木丁(カムラテン)国王が来朝したが故あって、その子弟と陪臣に謁見の令を与えた”。
ここには、中国陶磁の技術がスコータイに伝播することに関して、一言の言及もない。この至元三十一年とは、西暦1294年である。当時のスコータイ朝は、ラームカムヘーン王(在位:1279-1300年)の治世で、その版図はスコータイ朝を通して最大を誇った。
ところがこれに関し、タイ側に以下の資料が存在する。それは19世紀にラーマ5世の異母弟であるダムロン親王が、編纂したと云われている、「タイの年代記集成」である。その第1部に以下の記述があるという。
それは、“1294年の第1回入貢の時、帰国する翌年に50名ほどの磁州窯系の陶工をつれて帰ったこと、1300年には第2次使節団が、龍泉窯の陶工・家族を含めて500人をタイに招致した”・・・という伝承である。
これをもって多くの識者は、そのようにして技術伝播したと見解をのべているが、その信憑性はどうかとの疑問が残る。つまり、13世紀末の事績を19世紀に成文化したわけだが、どこまで真実を伝えているのか?
スコータイと元との関係は、スコータイが入貢することにより、比較的良好な関係にあったようである。(以下、蛇足ではあるが、八百息婦(ランナー)と元との関係については、元史巻17、19、20、21、23、24、61、63、99にランナーへの元の南征、巻25、30、32、33はランナーから元への朝貢が記録されているが、陶磁技法や陶工の移動に関する記述は皆無である。)
別の識者によれば、元寇の南下圧力により磁州窯の陶工が難を逃れ、吉州窯や広東、安南を経由してタイに至った・・・と云う。更に馮先銘氏は吉州窯の鉄絵を「靖康の変」②(つまり元寇に遡る時代)に際して、磁州窯の陶工が江西省に逃れ、釉下彩絵の手法を伝えたというのは、非常に可能性のあるところだと云う。
これらの説については、同時代資料に記述がないことから、当該ブロガーとしては、荒唐無稽とは言わないまでも、疑問であろうとの立場に立っていた。しかし、パヤオを訪問し、博物館で展示品を実見し、窯址に立って陶片を収集し、書籍「陶磁器・パヤオ」を読むに至り、立場の変更を余儀なくされている。

スコータイ、シーサッチャナーライの鉄絵文様は、磁州窯の影響であると、多くの識者が指摘している。その詳細は省略し、タイ北部窯への影響を次回以降検討したい。
注)
① 成宗 元朝第2代皇帝

② 靖康の変:1126年宋(北宋)が女真族国家の「金」に敗れて、華北を
失った事変、靖康は当時の宋の年号
参考文献)
・東南アジアの古美術 関千里著 めこん社
・ベトナムの皇帝陶磁 関千里著 めこん社
・上智アジア学第11号所収・ベトナムの貿易陶磁 森本朝子著
・磁州窯陶瓷 王建中著 二玄社
・中国の陶磁第7巻 磁州窯 長谷部楽爾著 平凡社
・世界陶磁全集13巻 遼・金・元
・陶磁大系47 タイ・ベトナムの陶磁 矢部良明著 平凡社
・日本出土の中国陶磁 長谷部楽爾著 平凡社
・元史
<続く>