<続き>
<ウィアン・ブア陶磁>
●ジャオ・マーフーアン&ポーユイ・ターエン古窯址(1)
ブア村近辺を覆う3平方キロの地域に、30以上の塚のような窯址が知られている。それらをウィアン・ブア窯群と呼んでいる。

2005年3-4月、サーヤン・プライチャンチット氏とタマサート大学社会遺産学部の学生達によって、Tao Po-Ui Taeng とTao Gao Ma-Fuangの塚が発掘された。その学生達はバン・ブア村の住民達と一緒に参加した。
2つの塚を発掘すると、3つの窯が残っていた。発掘した窯と陶片は、現在バン・ブア窯址博物館(現地名称:ウィアンブア文化センター)で展示されている。博物館は2009-2011年に、バンコク保険会社の寄付金と在パヤオ・ナレースワン大学パタマ・サミッタスリー(Patama Samittasiri)氏、サーヤン・プライチャンチット氏の学術的支援により設立された。
最初の塚をポーユイ・ターエン(Tao Po-Ui Taeng)窯と命名した。それはターエン・クルアワン(Taeng Khruawan)氏が所有する斜面で、中世のウィアンブア環濠集落の東隣に位置している。
ランナー様式でTao Din Gor方式(粘土構築窯)の地下式単室窯が発掘された。長さは5.50m、幅1.70m、煙突内径は0.35mで煙突上部は破壊されており、高さが幾らであったか不明である。
二つ目の塚をジャオ・マーフーアン(Tao Gao Ma-Fuang)と命名した。そこはJanChapotham氏が所有し、田圃の端の僅かに傾斜した斜面である。2基の窯が発掘され、Tao Gao Ma-FuangⅠとⅡと命名された。それらは小さなランナー様式の窯で、Tao Din Gor方式の地下式単室窯であった。
Tao Gao Ma-FuangⅡは残存する窯址が必ずしもはっきりしないが、その寸法はTao Gao Ma-FuangⅠと同じサイズであった。Tao Gao Ma-FuangⅠは小型で地下式の窯で長さは5.15m、幅1.90-2.00m、煙突は内径が0.50mで高さ1.65mであった。燃焼室と焼成室の長さは、それぞれ2.10mと2.45mであった。焼成室の床は水平で硬い粘土で、実用的であった。
狭い焚口の寸法は40×45cmで窯詰めに際し、注意を要し不便であった。尚、障焔壁の高さは35cmであった。泥土で築かれた窯体は明るい土壌で、その泥土を薄くして何層にも重ね覆われていた。
燃焼室から採取した炭化物をC14年代測定したところ、1280-1300年の年代を示した。それはパヤオ王国のガムムアン(Ngam Muang 1277-1317)王の時代に重なっていた。
<続く>
<ウィアン・ブア陶磁>
●ジャオ・マーフーアン&ポーユイ・ターエン古窯址(1)
ブア村近辺を覆う3平方キロの地域に、30以上の塚のような窯址が知られている。それらをウィアン・ブア窯群と呼んでいる。




ランナー様式でTao Din Gor方式(粘土構築窯)の地下式単室窯が発掘された。長さは5.50m、幅1.70m、煙突内径は0.35mで煙突上部は破壊されており、高さが幾らであったか不明である。

Tao Gao Ma-FuangⅡは残存する窯址が必ずしもはっきりしないが、その寸法はTao Gao Ma-FuangⅠと同じサイズであった。Tao Gao Ma-FuangⅠは小型で地下式の窯で長さは5.15m、幅1.90-2.00m、煙突は内径が0.50mで高さ1.65mであった。燃焼室と焼成室の長さは、それぞれ2.10mと2.45mであった。焼成室の床は水平で硬い粘土で、実用的であった。
狭い焚口の寸法は40×45cmで窯詰めに際し、注意を要し不便であった。尚、障焔壁の高さは35cmであった。泥土で築かれた窯体は明るい土壌で、その泥土を薄くして何層にも重ね覆われていた。

<続く>