世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

「陶磁器・パヤオ」シリーズ・27

2016-02-22 08:34:44 | 北タイ陶磁
<続き>

<ウィアン・パヤーオ陶磁>
●ウィアン・パヤーオ窯群
国道1号を北上し、パヤオ湖の東南端を過ぎると、市街地にさしかかる。ワット・リーの東北方向が窯群のようであるが、詳細は分からない。次の写真は「陶磁器・パヤオ」に、掲載されているものに追記したものである。
そこに示された窯址を探し求めた。そこには民家があったので尋ねると、その民家の裏にあったのだが、今は破壊され平地になっていると云う。別の場所で、タイ人ガイド氏が通行人に尋ねたところ、運よく窯址の地主とのこと。その地主の案内で、上の写真に示した位置にあるという窯址を訪ねた。
そこはバナナ畑であった。残念乍ら、そこも破壊されており、窯址の痕跡すら確認できなかった。そこに窯址があったであろうことは、陶片が散乱していたことから、そうであろうと考えられる。
果たして、このような窯址が何カ所存在するのか詳細不明で、Kriengsak Chaidarung氏の著作「陶磁器・パヤオ」にも記載されていない。




                                 <続く>



「陶磁器・パヤオ」シリーズ・26

2016-02-21 07:24:58 | 北タイ陶磁
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<フェイ・メータム陶磁>
●操業年代
この陶磁器が作られた時代特定は、まだはっきりとしていない。証拠(材料)不足で、分析できないようである。これに関してKriengsak Chaidarung氏は、窯の立地、窯の状態、製品の分布の研究により、次のことが推測できるとして、記述されている。
“おそらく小さな窯で、生産量はさほど多くなかった。この集落のみの限定した生産で量にも限りがあった。よってパヤオやその周辺の土地でフェイ・メータム窯の製品があまり見られないのである。それらの製品が、フェイ・メータム窯群以外で見つかっているのは、ウィアン・ブア窯群であるが、その数はわずかで鍋、水差しなどであり、フェイ・メータム窯群のものに良く似ている。違う点はウィアン・ブアの陶磁は、多くに透明釉が掛かっていることである。
(写真の白掻落しや線刻文は、ウィアン・ブア文化センターに展示されている、ウィアンブア窯群から出土した陶片である)
焼造年代については、ウィアン・ブアの陶磁と近い年代、それはつまり仏暦21世紀(西暦15世紀半ば)頃である。二つの窯場が近くにあること、フェイ・メータム窯群の陶磁がウィアン・ブア窯群で見つかったこと、更にウィアン・ブアの陶片と比較すると、ウィアン・ブア窯群より古い時代の可能性もある。フェイ・メータム窯群の多くの製品が、施釉されておらず硬く焼締めたもので、施釉が始まる前の可能性があり、フェイ・メータム窯群の陶磁器はウィアン・ブア窯群の影響を受けたものが見られないからである。“                      
                             <続く>



「陶磁器・パヤオ」シリーズ・25

2016-02-19 08:17:43 | 北タイ陶磁
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<フェイ・メータム陶磁>
●焼成陶磁
以下、前回までと同様にKriengsak Chaidarung氏の著述内容に従って紹介する。メーガートークワーク村の南に位置する窯址調査によると、焼成室の内部では、陶片が少ししか見つからなかったが、その大部分が鍋、水差し、小鉢であった。無釉で硬く焼いたものは、白化粧(Slip)してから、それを掻き落として文様を表していた。
(出典:「陶磁器・パヤオ」 Kriengsak Chaidarung氏によると、白化粧した水差しの陶片で、周囲には象の文様が掻き落としで表現されている)
更に粘土を練って、文様として貼り付け(貼花文)しているものもある。それは透明釉がかかり、釉下に黒い粘土で模様が描かれている。
            (出典:「陶磁器・パヤオ」)
この窯の器類の胎土の状態は何種類もある。陶工が、何ヶ所もの採取場から原料を集めたためだと思われる。よって陶磁器の胎土の色がそれぞれ異なっているのだ。見つかっているのは、淡い黄色、灰色がかった茶系統の色で、すべての種類の胎土は肌が細かく、砂の粒が非常に小さく、空隙も小さい。特に淡い黄色の胎土は質の高いきめの細かい土である。これらの理由から、出土した陶磁は、薄く硬い。
この他の興味深い点は、陶磁器の文様が変わっており、ランナー地域の他の窯で目にするものとは異なる点である。それぞれの盤や壷等に描かれた文様は、商取引目的のための陶磁製品というより、芸術品のほうに近い。出土したすべての陶片に同じ文様はなく、象の文様と鹿の文様は芸術性が高い。しかし残念なことは、この窯址からは、まだ完器が出土していないことである。

う~ん。これらは、著述内容通り興奮すべきものであった。最初の写真にある白化粧掻落とし技法の初出は磁州窯で、これを<白掻落し>と呼んでいる。黒土の貼花鹿文は、磁州窯<白地黒掻落し>と同様な視覚的効果を生み出している。北タイ諸窯に磁州窯の影響など歯牙にもかけていなかったが、再考が必要である。当件に関しては当該シリーズの最終回に見解を述べたいと考えている。
これらの完器が出土していないことだが、陶片は数カ所で実際に見ることができる。まずジャオ・マーフーアン古窯址に建つウィアンブア文化センターである。
白枠は<白掻落し>で、緑枠は磁州窯でいう<白地線彫り>である。以下の3点はワット・リー付属博物館で展示されている。


当該シリーズでこれまでにウィアン・ブア窯群、モンオーム窯群、フェイ・メータム窯群と紹介してきた。いずれも、その窯群で特徴のある製品や意匠をみることができた。パヤオは北タイでは特異な存在であることを伺わせている。




                         <続く>


「陶磁器・パヤオ」シリーズ・24

2016-02-18 08:50:34 | 北タイ陶磁
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<フェイ・メータム陶磁>
●フェイ・メータム窯群
以下、Kriengsak Chaidarung氏の著述に従って紹介する。
          (出典:「陶磁器・パヤオ」に加筆)
メータム川はパヤオ県ムアン郡メーガー町のブア村、メーガートークワーク村、ノーンゲーオ村を横切って流れ、メータム村でパヤオ湖に流れ込む古い水路である。メーガートークワーク村からノーンゲーオ村までには古い窯の廃墟が群になって点在している。多くは掘り起こされて状態が良くない。
フェイ・メータム窯群は、仏暦2503年(西暦1960年)に、グライシー・ニマンヘーミン教授とウィパット・チュティマー氏の調査団によって初めて公表された。彼らは、パヤオ県ムアン郡ジャムパーワイ地区(現在はメーガー地区)のメーガートークワーク村にあるフェイ・メータム窯群を調査し、窯の廃墟やメータム川に沿って陶磁片を見つけた。グライシー・ニマンヘーミン教授は、胎土と陶工の技術は、カロン窯群とサンカムペーン窯群の陶磁に良く似ている、という見解を出した。
   (出典:日本語情報誌「ちゃーお」掲載 グライシー・ニマンヘーミン教授)
仏暦2527年(西暦1984年)、もうひとつの調査団であるタイ国考古学機構(北部地域)が、ノーンゲーオ村周辺のフェイ・メータム窯群を調査し、粘土壁の窯の廃墟を見つけた。これは、地下式の横焔式単室窯であるとの見解を出した。窯の周辺では盤、皿、小鉢、水差しなどの陶片が見つかり、これらは青磁釉のもので、胎土は淡い白色である。もうひとつ見つかったものは、無釉で素焼きと思われる白化粧(Slip)をした陶片で、印花文様が見られた。
これ以外に、胎土の成分を調べた。フェイ・メータム窯群周辺の地面を4メートルほど掘り、地層を調べた。粘土の状態は、淡い黄色、黄色がかった灰色で、粘りは焼き物の原料にふさわしいものであった。

仏暦2528年(西暦1985年)、再度メーガートークワーク村周辺の窯址の調査が行われた。メータム川の支流にあたるキアン川の近くに窯址がひとつ見つかった。窯位置は、冒頭の写真にあるように、メーガートークワーク学校の南1.5キロメートルを右折し約500メートル地点。当該ブロガー訪問時、火葬場新築工事中であったが、結論として窯址にはたどり着けなかった。
Kriengsak Chaidarung氏の著述によると、窯の状態はかなり良く、掘られた跡などは少なかった。窯は、傾斜地に作られ、横焔式単室窯で独立した小さめの窯である。幅約1.9メートル、長さ約4-4.50メートル、粘土壁で壁の厚さは上が約10センチメートル、煙突の口の広さは約35センチメートルであった。




                           <続く>

「陶磁器・パヤオ」シリーズ・23

2016-02-17 09:13:49 | 北タイ陶磁
<続き>

<モンオーム陶磁>
●操業年代
Kriengsak Chaidarung氏は以下のように述べている。“証拠が見つからなくても、モーンオーム窯群では、操業年代をはっきりと分析することができ、ウィアン・ブア窯群の陶磁と比較することができる。同じグループの窯であることによる。窯の状態、製作方法、陶磁器の種類、形と文様が同じで、どれがウィアン・ブア窯群の器か、どれがモーンオーム窯群の陶磁かほとんど見分けがつかない。これまでに述べてきた、胎土のみが違う点である。”・・・とある。
つまりウィアン・ブア窯操業開始は、そのC-14年代測定により、3王同盟の時代である13世紀末から14世紀初頭であるとしている。従ってそれに準ずる年代ということになる。
それについては、モンオーム窯址から出土した、サンカンペーン印花双魚文盤からも裏付け可能であろう。
        (出典:「陶磁器・パヤオ」 モンオーム窯出土)
更に先日紹介した、パヤオ褐釉刻花蔓草文盤を再度御覧いただきたい。パヤオで特に多い装飾が、見込みの櫛歯による波状文である。確たる論拠があるわけではないが、この波状文は安南の影響を受けているのでは・・・と考えている。
下の写真は、関千里氏の著作「ベトナムの皇帝陶磁」P136に掲載されている安南陶磁・褐釉波状文皿で、東南アジア陶磁館の蔵品である。P136の写真は小さく見づらいので水彩にしてみた。
櫛歯による波状文がうまく写し切れていないが、写真では複線ないしは三重の波線であることを申し添えておく。見込み中央の蛇の目の釉剥ぎを除けば、味わいがにていると感じている。この安南の皿は、関氏によれば14世紀とのことである。しかしながら先に断ったように確たる論拠があるわけではない。
 蛇足を述べたが、モンオーム窯の開窯はウィアン・ブア窯と同じ13世紀末から14世紀初頭と考えるのが、妥当と思われる。




                                  <続く>