いつごろから斉藤和義の音楽を聴いていたのか、記憶にない。
一番最初に聞いた歌は、「幸福な朝食 退屈な夕食」だった。
これは、1997年の発売だというから、きっとその頃なのだろう。
とにかく歌詞の密度が濃い歌である、というのが第一印象。
後半の歌詞。
借金返済 印税収入 フェンダー・ギブソン オモチャじゃねぇんだ
知らない同士 体制と犠牲 変態行為 ロックンロール
島国社会 大陸社会 ライバル意識 劣等感
おはよう おやすみ こんにちは いいだろ イヤイヤ さようなら
今歩いているこの道がいつか懐かしくなるだろう
今歩いているこの道がいつか懐かしくなればいい
今歩いているこの道がいつか懐かしくなるだろう
今歩いているこの道がいつか懐かしくなるはずだ
支離滅裂に聞こえるが、言葉のリズムで、彼の心象風景は確実に理解できる。
いま自分が抱えている問題を、思いついたまま歌詞にして、日記を書くように、そして日記を読み直すように、自己を再認識している。
それは、確実にロックだった。
まるで、若い頃のローリング・ストーンズを彷彿とさせるような「捨鉢なロック」だった。
斉藤和義の歌声にロックを感じたとき、私にとって、斉藤和義は特別な存在になった。
「あの高い場所へ」や「歌うたいのバラッド」も確実に、私にとって良質なロックだった。
良質なロックというのは、反体制ということ。
不満のマグマを絶えず抱えているから、ラブソングでさえも、斉藤和義にとっては、己れのマグマを排出する手段になっている。
それを受け入れられるかどうかが、斉藤和義を「好き」か「嫌い」かの分岐点になる。
私は、それを受け入れたので、「好き」ということだ。
そして、斉藤和義は、私だけの感性で言うなら、日本的ではないロックンローラーである。
だから、メジャーになれない。
たとえば矢沢永吉は、極めて日本的で当たり前の洋楽もどきのシンガーだ(ロックンローラーとは違う)。
だから、彼はメジャーになれた。
勝手な言い分であることは承知で言う。
私は、斉藤和義には、ずっと良質のロックンローラーでいて欲しい。
だから、メジャーになって欲しくない。
本当に、勝手な言い草だとは思うが・・・・・。
一番最初に聞いた歌は、「幸福な朝食 退屈な夕食」だった。
これは、1997年の発売だというから、きっとその頃なのだろう。
とにかく歌詞の密度が濃い歌である、というのが第一印象。
後半の歌詞。
借金返済 印税収入 フェンダー・ギブソン オモチャじゃねぇんだ
知らない同士 体制と犠牲 変態行為 ロックンロール
島国社会 大陸社会 ライバル意識 劣等感
おはよう おやすみ こんにちは いいだろ イヤイヤ さようなら
今歩いているこの道がいつか懐かしくなるだろう
今歩いているこの道がいつか懐かしくなればいい
今歩いているこの道がいつか懐かしくなるだろう
今歩いているこの道がいつか懐かしくなるはずだ
支離滅裂に聞こえるが、言葉のリズムで、彼の心象風景は確実に理解できる。
いま自分が抱えている問題を、思いついたまま歌詞にして、日記を書くように、そして日記を読み直すように、自己を再認識している。
それは、確実にロックだった。
まるで、若い頃のローリング・ストーンズを彷彿とさせるような「捨鉢なロック」だった。
斉藤和義の歌声にロックを感じたとき、私にとって、斉藤和義は特別な存在になった。
「あの高い場所へ」や「歌うたいのバラッド」も確実に、私にとって良質なロックだった。
良質なロックというのは、反体制ということ。
不満のマグマを絶えず抱えているから、ラブソングでさえも、斉藤和義にとっては、己れのマグマを排出する手段になっている。
それを受け入れられるかどうかが、斉藤和義を「好き」か「嫌い」かの分岐点になる。
私は、それを受け入れたので、「好き」ということだ。
そして、斉藤和義は、私だけの感性で言うなら、日本的ではないロックンローラーである。
だから、メジャーになれない。
たとえば矢沢永吉は、極めて日本的で当たり前の洋楽もどきのシンガーだ(ロックンローラーとは違う)。
だから、彼はメジャーになれた。
勝手な言い分であることは承知で言う。
私は、斉藤和義には、ずっと良質のロックンローラーでいて欲しい。
だから、メジャーになって欲しくない。
本当に、勝手な言い草だとは思うが・・・・・。