リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

ひこうき雲

2011-07-18 10:43:43 | オヤジの日記
荒井由実のアルバムは、「ひこうき雲」しか聴いたことがない。

それ以降のアルバムも、松任谷由実になってからも一度も聴いたことがない。
シングル曲は、それなりにヒットしたものは耳に入ってきたが、真面目に聴いたことがない。

「ひこうき雲」で、十分だと思ったからだ。

アルバムの中の曲、「雨の街を」は、荒井由実、松任谷由実の作品を含めて、最高傑作であると私は思っている。

全編から感じる「みずみずしさ」がいい。
この曲と、「ベルベット・イースター」「きっと言える」だけ聴けば、荒井由実の全てがわかると言っていいと思う。

つまり、それは「みずみずしい才能」。

歌詞も歌声も全てが、みずみずしくて、あふれるばかりの才能を感じさせる曲だ。

これほどの曲を聴いてしまったら、もうあとはいらない、と私は思ったのだ。

だから、それ以降、彼女のアルバムを聴いていない。
聴いて、ガッカリするのが嫌だったからだ。

その後、数曲メジャーヒットを飛ばしたシングルやCM曲を聴いてみても、デビューアルバムのみずみずしさは、全く感じられなかった。

その後、なぜかユーミンは「アルバム歌手」という評価を得て、大きな名声を得たが、ヒット曲を聞く限りでは、私には「並みのシンガー・ソング・ライター」「ただの流行歌歌手」、あるいは極めて日本的なスケールの小さな「エンターティナ」としか、思えなかったのである。

「みずみずしい才能」が続くのは、一作限りである。

二枚目、三枚目以降に、そのみずみずしさが続いたら、そのアーティストは、化け物だ。

荒井由実は、化け物ではなかったから、「みずみずしさ」が消えた。

そして、「みずみずしさ」のない荒井由実は、平均的なシンガーであり、並みのコンポーザーでしかない。

だから、聴かない。
聴きたくない。

「ひこうき雲」の世界を、壊すくらいなら、聴かない方がいい。



月光から剣と楓

2011-07-17 08:38:13 | オヤジの日記
鬼束ちひろを初めて聴いたのは、ほとんどの人と同じように、TVドラマ「トリック」のエンディング曲としてだった。

独特の世界観。
いきなり「I am GOD'S CHILD」と歌いだす、鬼気迫る歌声には、度肝を抜かれた。

そして、後半の歌詞。


最後(おわり)になど手を伸ばさないで
貴方なら救い出して

私を 静寂から

時間は痛みを 加速させて行く


どんな心象風景のとき、この曲を書いたのか。

もし、こともなく、この歌詞を書いたとしたら、彼女は天才であるに違いない。
そう思った。

それ以降も、鬼束ちひろは、デビュー3年目までは、独特の世界観を持つ作品を作り続けていた。
クリエイターとしての才能は、同じ世代の人の中では、トップクラスにいたと思う。

シンガーとしても、「いい日旅立ち・西へ」は、本家の山口百恵を凌駕していたと思う。


ただ、鬼束ちひろが、今もクリエイターとしてもシンガーとしても天才なのかは、作品が少なすぎて、よくわからない。

2008年にリリースされた「蛍」は名曲だが、私の勝手な思い込みであるが、壮大なバラードというのは、鬼束ちひろに似合わない気がする。
彼女は、少し現実の世界観から、ずれていたほうが天性の才能が煌めく人なのではないかと思う。

今度、久しぶりのアルバムとして「剣と楓」というのがリリースされるらしい。


鬼束ちひろの世界観が、どの程度まで広がったか、それを確かめるのが楽しみだ。



陰陽座

2011-07-12 10:09:26 | オヤジの日記
陰陽座を聴きはじめたのは、今年高校一年の娘の影響だった。

娘は、全てにおいて、私の影響を受けているから、聴く音楽の傾向が、ほとんど私と一緒だった。
椎名林檎を小学2年から聴いていて、今は椎名林檎・東京事変の生き字引といっていいほどまで詳しくなった。

しかし、小学6年になったとき、自分の音楽生活に自主性がないことに気づいた娘は「オヤジが聴かない音楽は何だろうか」と考え、ビジュアル系というものを見つけたのだった。

ジャンヌダルク、プラスティックツリー、アンティックカフェなど、自分好みの音楽を見つけ、娘は音楽的に父親から自立したのであった。

そして、ビジュアル系の流れから確実に外れてはいたが、娘は椿屋四重奏、陰陽座に辿りついいた。
どちらも和のテイストを生かしたロックバンドである。


私は、自立した娘がよく聞く音楽とは何ぞや、と興味をもって、椿屋四重奏、陰陽座を聴き始めた。


陰陽座は、ヘビィメタルと分類されているようだが、娘も私もただ単に「和のジャパニーズ・ロック」という受け止め方をしている。

ツインボーカル、ツインギターという変則的な編成のバンド。
メジャーなバンドになることは決してないだろう、と断言できる特異な世界を持ったバンド。
しかし、一度聴いたら病みつきになる脳内麻薬を刺激してくれるバンド。

「妖怪ヘビィメタル」とも言われているようだが、そのキャッチフレーズは、あまり肯けるものではない。
当たり前のことだが、その音的志向は「妖怪」だけに限定されているわけではない。
音楽のごく一部だけを取り上げて「妖怪」という言葉で括るのは、乱暴すぎるし、彼らの音楽の本質から外れることになる。


娘と私は、陰陽座の音楽を「和だよね」とだけ表現している。

そして、「黒猫さんのボーカルはいいよね」という意見で一致している。

「アルバムは『百鬼繚乱』が一番かも」というところも一緒だ。


椿屋四重奏は、解散したらしい。

でも、陰陽座は、解散しないでください。

それが、娘と私の願いです。




ZARD「眠れない夜を抱いて」

2011-07-09 08:03:03 | オヤジの日記
中学のときからギターを弾いている。

今も耳で聞いた音をコードでなぞって、いわゆる「耳コピ」という形で適当にギターを爪弾いて遊んでいる。

才能がないので、完全にコピーはできないが、むかしZARDの「IN MY ARMS TONIGHT」を聴いたときは、すぐにコピーすることができた。
だからかもしれないが、それからZARDの曲を気にして、聴くようになった。


誰も言わないことだが、ZARD前とZARD後で、確実に変わったことがある。

ZARD前は、シンガー・ソング・ライターかプロの作詞、作曲者が曲作りに携わるのが普通だった。
要するに、全部を自分で作るか、すべてをプロに任すか。
それが、当たり前だったように思う。

歌手が、歌詞だけを担当するという方式は少なかった。

しかし、ZARDは、それをした。

シンガー・ソング・ライターやプロの作詞家のように、難しい言葉を使うことなく、誰にでもわかるような言葉で、自分の心象風景を歌詞にした。
そのときの自分の思いを素直に表現した歌だから、歌は聴きやすいものになった。

当然のごとく、売れた。


そして、ZARD後、歌詞を自分で書く女性シンガーが増えた。

つまり、ZARDの出現は、日本のポップスの歴史の中で、エポックメイキングなものだったのだ。

だが、誰もそれに気づかないから、ZARDはただの人気歌手としてしか、昔も今も評価されない。

だから、私にとってZARDは、過小評価され続けた歌手というイメージが最も強い。

歌手の業績は、音楽性やセールスだけで判断すべきではない。
その時代、またはそれ以降の時代に、何を残したかで、評価されるべきである。

ZARDがポップス界に残した足跡。

おそらく流行歌手であったがゆえに、その足跡の鮮明さを気づいてもらえなかったか、あるいは、ただ単に流行歌手に対する偏見が、正当な評価の邪魔をしたのか。


ZARD後の女性歌手は、自己表現の選択肢が増えて、随分と仕事がしやすくなったと思うのだが、もちろん今売れっ子の歌手たちは、ZARDが作った軌跡のことなど、考えたこともないだろう。

道を作ってくれた人のことなど忘れて、すべてが自分の実力だと思い込んでいるに違いない。


ZARDの死に方は、悲劇だったが、ZARDは、日本の音楽シーンの歴史の中でも、悲劇的な位置にいる。



ZARDの初期の頃の歌。


眠れない夜を抱いて
不思議な世界へと行く
まだ少女の頃の
あどけない笑顔に戻って
in my dream mystery

眠れない夜を抱いて
駆け抜けた時間を想うの
まだ少女の頃の
あどけない笑顔に戻って
in my dream mystery


眠れない夜を抱いて 駆け抜けたZARDが残したものは、大きいと思う。

しかし、あどけない笑顔に戻ったZARDが、眠れない夜を抱くことは、もうない。

悲しいことだが・・・・・。



Superflyのタマシイ

2011-07-05 09:26:08 | オヤジの日記
彼女の歌を初めて聴いたとき、誰が歌っているのか、と思った。

声量がある。
声が生きている。
声に存在感がある、と思った。

洋楽のテイストが強い、と表現する人がいるようだが、私には国籍不明の音楽に聴こえた。

その国籍不明の独特感が、Superflyの真骨頂ではないかと、私は思っている。

何事にも悪口を言う人は、その歌唱を一本調子だという。

それは、その人にSuperflyを聴く才能がないからだろう。

クラシックやジャズは、みんな同じに聴こえる、というのと同じ。
そういう人は、クラシックを聴く才能がないし、ジャズを聴く才能もない。

私は、演歌は男が歌っても女が歌っても、ほとんど同じメロディに聴こえる。
つまり、演歌を聴く才能が、私にはないと思っている。

エグザイルの歌もみな同じに聴こえるから、やはり私に才能がないのだと、聴くのを諦めている。


逆に、Superflyの歌は、起伏に富んで聴こえる。

ありあまる声量とドライブ感。

越智志帆の全身から放たれる、一音一音が、その声の粒子が、私の脳と体を奥底から揺さぶる。
Superflyのタマシイが、細胞に入り込む。

つまり、私はSuperflyを聴く才能を確実に持っているのだと思う。

その才能を持てたことを、私は嬉しく思っている。


その才能が枯れない限り、私はSuperflyを聴き続けるだろう。