昨日(14日)は、富士錦酒造の蔵開きの撮影に行ってきました。富士山は霞がかかっていましたが、晴天の下、田んぼにシートを敷いて朝9時から飲み放題の宴会が始まります。その数、1万人強。芝川町の人口を超える人数です。1社の蔵開きで、これだけの人を集めるイベントは、静岡県内ではもちろん、全 国でもあまり例がないのでは・・・。
朝、蔵へ向かう途中、芝川町の町立文化ホール『くれいどる芝楽』の前で車が渋滞していて、何か大きなイベントがあるのかな、と思いました。
富士錦での撮影を終えて、昼前、ふたたび『くれいどる芝楽』の前を通ると、式典用の正装をした関係者が出入りしているのが見えて、何かのお祝い行事かなぁと思って帰宅して調べたら、芝川町の閉町式だったんですね。3月23日に富士宮市と合併するのです。
昭和31年(1956)、芝富村と内房村が合併して富原村が生まれて、その翌年の昭和32年に、富原村と柚野村が合併して誕生したのが芝川町です。
その遥か昔、富士錦酒造の蔵元・清さんの家は、元々は源頼朝が旗揚げしたとき、宇都宮から富士山麓へはせ参じた一族で、江戸時代に芝川流域に平地が開墾されたころ、清家をはじめとした近隣の人々が必死で田を起こし、この地の基盤を作りました。豊作が続くと余った米を山里では消化しきれず、富士山麓の周辺では地主の多くが酒造りを創業しました。大正時代まで今の酒小売店ほどの数の造り酒屋があったそうです。
今では芝川流域で唯一の蔵となった清家も、江戸期の創業で、現在の当主で18代・創業300年を誇る県内屈指の伝統蔵です。
清家では、明治から大正期、稲作と山林業と養蚕を兼業しながら、富士宮の阿幸地(あこうじ)から腕のいい杜氏を招いて酒造の灯を守りました。
昭和に入って戦争で一時中断し、農地解放後の昭和22~23年ころから酒造専業となります。戦後の高度成長期は、安定的な働き口が増えたこともあり、杜氏が地元で思うように蔵人を集めてチームを構成することができなくなり、杜氏集団の伝統が残る長野や新潟から杜氏を招くようになりました。
今の杜氏・畑福馨さんは平成8年から務める南部(岩手)杜氏。18代目の現社長・清信一さんと同期入社です。南部杜氏自醸会やモンドセレクションで好成績を上げ、今年の静岡県清酒鑑評会でも純米の部で県知事賞を受賞するなど、15造り目を迎え、静岡を代表する名杜氏と称されています。
昨日は仕込み蔵の入口でお客さんを出迎え、質問に応えていた畑福さんをつかまえてインタビューを撮らせてもらいました。
県知事賞のお祝いを伝えると、「いやぁ、毎年1年生の気持ちで、緊張の連続です」と真摯に答える畑福さん。蔵に、1万人もの一般客を迎えて直接飲ませるというのは、杜氏さんにとって少なからずプレッシャーになっているのでは・・・とも思って訊いてみると、「南部杜氏の仲間にこの光景を見せたいですよ、杜氏仲間の蔵でも、これだけお客さんが来る蔵はないでしょう」と誇らしげ。受賞は、出品するからには当然、獲って嬉しいだろうと思いますが、お客さんから直接「うまい」と云われることも、それに匹敵するくらい、モノ造りの職人には勲章モノなんですね。映像から、その実感が観る人に伝わるといいなぁと思います・・・。
富士山を借景に、お天道様のもと、田んぼにシートを広げて大はしゃぎで飲む1万人の老若男女をカメラに収め、閉町式のあったホールを通って帰宅して、写真や資料をチェックするうちに、地域における酒蔵の存在意義をしみじみ考えました。
・・・町の名前が消えてしまうのは、江戸時代にこの地が開墾されて以来、繰り返されてきた宿命だったのかもしれないけれど、酒が出来て、田んぼに集まってみんなが飲んで喜ぶ姿や、酒造り職人が「うまい」と褒められて意気に感じる姿は、それこそ300年前から変わらないんじゃないかしら。
世の中に、300年400年続く伝統文化や産業は他にもありますが、これだけ地域に開放され、庶民に愛され、支持される産業があるでしょうか・・・。しかも、それを体現して見せた富士錦酒造だけがこの地で18代の今も生き残っていることに、地方自治や地域産業の担い手が学ぶことは多いのでは、と思います。
富士錦のみなさん、本当にお疲れ様でした!