杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

安政大地震で本当に清水に津波が来たのか?

2011-11-09 14:49:17 | 朝鮮通信使

 報告が前後しますが、10月31日(月)夜、静岡県朝鮮通信使研究会第3回例会が行われました。地酒イベントでお世話になっている静岡観光コンベンション協会事務局のかたを「日韓交流事業のお役に立つ勉強会ですよ」とお誘いしたところ、女性スタッフさんが参加してくれました。・・・こういう広がりって嬉しいですね!!

 

 今回、北村欽哉先生が取り上げたテーマは2つ。一つは朝鮮通信使とは関係ありませんが、先生ご自身がまとめられた震災がらみの論文『安政の大地震と清水湊―清水湊八ヶ町に津波は来なかった』です。

 

 

 東日本大震災の後、学者の間では、過去の大地震津波の痕跡を調査し、“先人の経験や知恵に学べ”という論調がさかんですね。それはそれで正しいことだと思いますが、過去の痕跡を見誤ると、間違った対策を取りかねないことを先生は指摘されました。

 

 

 今年5月30日付けの静岡新聞夕刊に、「歴史津波に学ぶ・ゼロからの出発」シリーズ9として安政東海地震で清水湊が津波に襲われた記録が紹介されていました。

 記事には、

「津波は巴川河口東岸部の向島の浜を乗り越えて湊を襲った。停泊していた廻船や漁船の大破など甚大な被害をもたらした」

 「県の推計では、河口部の津波は高さ約3メートル、河口から約2キロ常住の専念寺にも、川水があふれて墓地が水浸しになり、魚が泳いでいたとの言い伝えが残る」等と書かれています。

 

 

 しかし、ご実家が清水湊の廻船問屋だった北村先生は、この記事に首をかしげたそうです。津波については、幼いころから「清水は三保が防波堤になるから津波は来ない」と聞かされ、ご実家の史料にも津波にやられたという記述はなかったからです。

 

 

 

 そこで、先生はあらためて古文書・古記録・古地図類を徹底的に検証されました。

 

 先生が論文で取り上げた『御救拝借懇願書』という古文書は、被災地の住民代表が役所に被害状況を伝え、資金援助を申し出たもので、安政大地震の基本的史料として知られています。これを丹念に読み解くと、津波は確かに向島に達したが、当時の向島(今のドリプラあたり)は人家がなく、停泊していた船が“逆波”で流された。清水湊八ケ町は向島に隣接しているが、ここまで津波が襲ったとは一言も書いておらず、地震によって発生した火災によって「家居、土蔵、金銀、米、銭、衣類、諸道具残らず焼失」と記されています。

 

 

 同じ安政大地震で被災した沼津の重須村(今の三津シーパラダイスあたり)の古文書には「地震が起こるとたちまち家が潰れ、そのあと大山のような津波が3回も来襲し、すべての建物が流出し、河原のようになってしまった。村の三役である百姓代は溺れ時に・・・」と、今日の東北の状況を彷彿とさせるような記述が残っています。津波に襲われたなら、清水の史料にもこういう報告があってしかるべきでしょう。

 

 

 清水側が老中に拝借金を願い出た文書でも、「地震出火による被害」と明快に謳っています。お上に被害を訴えるとき、わざわざ被害を少なめに見積もるようなことはしませんよね。津波にやられたのなら、そうハッキリ書くはずです。

 

 静岡新聞で取り上げていた専念寺の文書には、「地震の節は火事を大一に、皆々防ぐ心得 大一に御座候也 後代の為、コレを記す者也」とあります。火事を第一に、と2度も(あえて“大一”という字を当てて)強調しているところが印象的です。

 専念寺が川水をかぶったという静岡新聞の記述に対しては、「専念寺が面していたのは巴川ではなく江川で、現在は暗渠となり姿を消した。巴川から最も遠い上町の西のはずれにある専念寺まで、巴川の水が来たとすると、上町は全面津波に襲われ、町中に魚が泳いでいたはず。そんな記述はどこにも残っていない」と解説し、「調査した史料全体の中で、圧倒的に多かったのは火事の記録」「史料を正確に読まずに、清水が津波に襲われたというイメージを流布させるのは怖い」と危惧されていました。

 

 先生はまた、当時の幕府の救援対策が、今の政府に比べてずっとスピーディーだったと述べています。史料によると、地震発生から1ヶ月後に清水湊の男性一人あたり7升、女性一人5升の米を支給し、40日後には清水湊の被災家屋760軒に対し、1軒当たり40万円ぐらいの義援金を支給しました。

 

 住民側も自治組織がしっかり出来ていて、被害状況をすばやく掌握し、「倹約しよう」「お祭りは当面自粛」「名主の給料は3年間半額」「湊の役金、海苔・蛤取り・三保渡船に震災復興税を課税する」といった取り決めをしているのです。・・・新聞記事ならば、不安をあおるばかりじゃなく、こういうエピソードも紹介してほしいですねえ。

 

 

 

 

 もちろん、先生は、津波の心配はないとおっしゃっているわけではありません。当時と今とでは状況が変わっているし、今、安政大地震規模の地震と津波が発生すれば、旧清水市中心部が被災する可能性は非常に高いと思われます。

 

 

 

 

 今回の東日本大震災では、想定をはるかに超えた津波が襲いました。先生は「自然災害を“想定できる”と考え、それを超えたものを“想定外”とするのは人間の奢り以外の何物でもない」とし、今、我々に出来ることは、過去に起きた被災状況を正確に理解すること、安政クラスを凌ぐ巨大地震と巨大津波が起きることを肝に銘じること、と真摯に述べられました。

 古文書を正しく読み解くためにも、地震学術会議には、ぜひ先生のような歴史専門家を加えるべきだと実感します。

 

 

長くなりましたので、例会メインテーマ「駿府城に朝鮮被虜がいた」はまた後日。