ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

奥の細道旅行譚(鶴岡市)

2017年10月15日 | 旅行

湯殿山からの長い道のりでしたがようやく鶴岡市内に入って来ました。

まずは松が丘農場です。

明治5年に旧庄内藩士3000人が刀を鍬に持ちかえて開墾した一帯です。

月山山麓のすそ野に広がる225haの広大な開墾地には幾多の困難を乗り越えて現在まで続いているそうです。

夏の終わりにやって来たせいでしょうか。セミの鳴き声も最後というくらいに鳴いてはいましたが夕日が傾き始めなんだかちょっと淋しそうでした。

冬は雪が沢山降って、たいした防寒設備のなかった昔。武士の生活から一変した苦労は大変だったろうなと思いました。

松が丘開墾記念館(一番蚕室)

明治8年に建造。桁行37.8m、梁間9m、2階建ての上に、更に通風換気の越屋根が取り付けられています。

中に入ってみました。

1階の展示室は松が丘開墾資料、2階は全国の土人形、土鈴などが展示してありました。

床などはピカピカに掃除されています。わが家の事を考えると恥ずかしい。

更に記念館を出て歩いて行くと庄内映画村記念館(五番蚕室)がありました。

「おしん」などの室内セット、「おくりびと」の棺での入棺体験などいろいろ楽しめそうでしたが

先を急ぐので入館はあきらめました。

そして鶴岡市の中心部に入り鶴岡公園のお堀が見えてきました。

鶴岡市と言えばやはり藤沢修平の作品でしょうか。

藤沢修平さんは昭和2年に鶴岡市に生まれ山形師範学校を卒業、「暗殺の年輪」で第69回直木賞を受賞しました。

どの作品も読みやすくて人間の心が優しく描かれていてご隠居も大好きです。

もっとも作品も多いので題名を見ただけではよくわからなくて2-30ページ進んでから昔読んだことがあるななどと思ったりします。

まぁ少しぼけてきたこともあります。

この「蝉しぐれ」は海坂藩ということになっていますが庄内藩のことだと思います。

 

夏の景色

いちめんの青い田圃は早朝の日射しをうけて赤らんでいるが、はるか遠くの青黒い村落の森と接しているあたりは、まだ夜の名残りの霧が残っていた。

じっと動かない霧も、朝の光を受けてかすかに赤らんで見える。

そしてこの早い時刻に、もう田圃を見回っている人間がいた。

黒い人影は膝の上あたりまで稲に埋もれながら、ゆっくり遠ざかって行く。

頭上の欅の葉かげあたりではにいにい蝉が鳴いている。

快さに文四郎は、束の間放心していたようだ。そして突然の悲鳴にその放心を破られた。

 

この近くに(鶴岡市馬場町4-6)藤沢修平記念館があるそうですが時間がないので割愛しました。

致道博物館にやって来ました。

あと30分で閉館ですがいいですかと言われ「写真撮ってすぐに帰ります」と言いました。

「そんなには急がなくてもいいですよ」と受付の人が笑っていました。

日本各地の城下町に行くと必ずこういう文化が香る博物館があります。

城下町は大好きです。

この博物館は鶴ヶ丘城の三の丸のあたり、庄内藩の御用屋敷になっていたところだそうです。

徳川四天王のひとり酒井忠次を祖として明治時代まで酒井氏が治めていました。

その酒井氏が郷土文化の向上をのため旧藩校致道館資料及び土地建物を寄付したそうです。

「致道」とは中国の古典「論語」の一節「君子学んで以って其の道を致す」にあるそうです。

敷地内には見学場所が沢山あるようです。またゆっくり来てみたいですね。

鳥海山も夕闇が迫ってきました。

今宵は湯野浜温泉に泊まりました。

翌朝、朝の海岸を散策しました。約1kmわたる白浜海岸が特徴です。

昔来た時よりなんだか元気がないような気もしますがそんなこと書いたら怒られるかな。

さあ長かった庄内地方の旅も、くらげの加茂水族館を残すだけになりました。

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 奥の細道旅行譚(六十里越街道) | トップ | 奥の細道旅行譚(加茂水族館... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

旅行」カテゴリの最新記事