一度福島駅まで戻り、芭蕉一行の旅には関係ありませんが花見山公園に行ってみました。
東北屈指の桜の名所です。
福島駅から臨時バスが10~15分間隔で運行していますがバス待ちの観光客が長蛇の列です。(午前中)
山全体に桜が咲いています。
平成29年4月12日に日本経済新聞の朝刊に掲載された河野恵夫さん(ふくしま花案内人会長)の記事を一部お借りして紹介します。
「花見山公園は年間に25万人以上が訪れる東北きっての花の名所だ。
だが花よりももっと美しいものがある。そのことを私たちに教えてくれた人物をお話しします」
皆について山裾の方に歩いて行きましょう。
「この花見山公園は私有地です。持ち主は阿部さんさんという花卉農家で公園の入ったところにお宅があります」
「山を人々が安らげる場所にしようと考えたのが先代の阿部一郎氏です。この人が花見山公園を今の形にした人で、公園は彼の人生そのものでした」
「一郎氏は1919年に生まれで実家は養蚕農家でした。そのころ世界恐慌の影響で生糸が売れなくなり田畑はおろか家まで手放さなくなりませんでした。
家族は山で摘んだ花を町に売りに行くその日暮らし。だが少しずつ借金を返済して山林を買い戻すことが出来ました」
所々に休憩する場所があります。やっぱり美しい花をたくさん見ても口が淋しいのは何処に行っても同じです。写真が露出不足かな?未熟だなぁ。
「一郎は信夫農学校に進学して当時の校長が唱えた言葉に心を打たれました。
それは商人が商魂があるように、農民には「信農魂」が大切。農業は苦しいことの連続だが、どんな時にもなにくそと頑張ることだ。
農家は下肥を使う仕事といわれたが一郎氏は「堂々と胸を張って馬鹿にされない仕事をしたい」と決意したそうです」
「卒業後は家族と共に雑木林を耕し、花を植えた。機械はなく一日に1~3坪しか耕せない。
それでも「苦しみの先には必ず幸せがある」とへこたれなかった」
「戦争で中国に渡り多くの戦友を亡くしました。
戦死した仲間とその家族に申し訳ないという割り切れない気持ちだった。
復員後は以前にもまして農業に打ち込んだのは、平和を強く希求する心があったためだ」
「戦後復興が進むのと足並みをそろえるように農園は発展しました。
花は四季折々に美しい姿を見せるようになりました。
「山を見せてほしい」という人が出てきて、59年には農園を無償で一般開放しました。一郎氏は来園者のためにトイレを設置し、つえを貸出した。
坂道で滑って服を汚した人にはジャージを差し出しました」
「一文の得にもならないのになぜそこまでやるのか。
農業は草花を育てるだけでなく、人の心も育てるもの。だから花を見たいという人には心置きなく見てほしいと話しました」
「花見山が桃源郷にたとえられるのは、一郎氏の人柄が花のように人を引き付けたからだと思う。
13年に93歳で一郎氏は世を去ったがその思いを知ることで、花を見に来た人々の心にも春風が吹いてくれたらうれしい」