2月10日 編集手帳
石屋の大将は焼き海苔(のり)が好物らしい。
「海苔と梅干がすたれるようじゃ、日本もおしまいだよ」。
往年のテレビドラマ『寺内貫太郎一家』の食事場面を向田邦子さんのシナリオから引いた。
食卓には、
きっとあの小さな醤(しょう)油(ゆ)びんが置かれているだろう。
焼き海苔や納豆、目玉焼き、目刺しなど昭和のごちそうをつつましく彩った名脇役である。
キッコーマン「醤油卓上びん」で知られる工業デザイナー、栄久庵憲司(えくあんけんじ)さんが85歳で死去した。
実家は広島市の爆心地から500メートルほどの距離にあり、
原爆で父親と妹を亡くしている。
終戦を迎えて海軍兵学校から自宅に戻ってみると、
風景が無残に消えていた。
「秩序のある、美しいモノの世界」に恋い焦がれて工業デザインの道に入ったと語っている。
赤いキャップの醤油びんは、
むごい炎を知る人が悲しみを代償にして、
津々浦々の平和な食卓にともしたロウソクの灯だったかも知れない。
飯島晴子さんに春の句がある。
〈結局みんなおふくろ定食竹の秋〉。
訃報に接し、
遠い日の卓(ちゃ)袱台(ぶだい)と、
布巾(ふきん)をかけたお櫃(ひつ)と、
おふくろ定食のあれこれを瞼(まぶた)に浮かべた方もあろう。