日暮しの種 

経済やら芸能やらスポーツやら
お勉強いたします

当時の“常識”覆した革命児 ピエール・カルダン氏

2021-01-31 07:00:00 | 報道/ニュース

2021年1月13日 NHKBS1「国際報道2021」


フランスのファッションデザイナー
ピエール・カルダン氏。
2020年12月29日 98年間の生涯に幕を閉じた。
戦後間もない頃からキャリアを築いて世界的に有名になったカルダン氏だが
今あたり前だと思っていることを
当時の常識を覆して取り入れ
いわば“革命を起こした人物”でもあった。

独創的でカラフルなデザイン。
なかには近未来を意識したものまで。
さまざまなデザインを世に送り出し「モード界の革命児」とも言われたピエール・カルダン氏。
(映画「ライフ・イズ・カラフル」より)
「10代のとき学校で聞かれた。
 “将来は何になりたい?”
 “ファッションデザイナーです”
 意味も知らずに。」
これはカルダン氏の半生を描いた映画である。
幼い頃イタリアからフランスに移住したカルダン氏は
戦後 ファッションデザイナーのクリスチャン・ディオール氏のもとで会働いた後 独立。
めきめきと頭角を現していく。
(映画「ライフ・イズ・カラフル」)
「パリで求められるのは創造性で
 多くの女性に提供されるべきだ。
 金持ちの特権階級の女性に限定してはならない。」
ピエール・カルダン氏の“革命”その① 既製服の概念を覆す
当時ファッションと言えば富裕層などの特権階級などが楽しむもの。
カルダン氏はこの常識を覆し
“侯爵夫人だけでなく家政婦向けにも服を作る“として既製服の市場に参入。
デザイン性のある大衆向けの服を比較的安い値段で提供したのである。
これが爆発的な人気を呼んだ。
「これは1966年~67年にカルダンがは票した既製服です。
 価格もとても安かったんですよ。」
カルダン氏のアシスタントを務めていたルネ・タポニエさん。
14歳でカルダン氏のもとで働き始め
60年近くに渡り傍で支えた。
(ルネ・タポニエさん)
「とても裕福になってからも布切れ一枚も無駄にしないんです。
 イタリアからの移民で
 幼い頃貧しかったことも影響していたのかもしれません。」
ピエール・カルダン氏の“革命”その②  モデルの多様化
カルダン氏はモデルの多様性という点でも革命を起こした。
モデルの中でひときわ目を引く女性は松本弘子さん(2003年死去)。
(映画「ライフ・イズ・カラフル」)
「日本人ですね?」
「ええ日本人です。」
「なぜフランスに?」
「カルダン氏のおかげです。
 彼は5~6年前に来日。
 日本人モデルが必要だったんです。」
カルダン氏が1950年代に来日した際
モデルとして活躍していた松本さんの美しさにほれ込み
パリで自分のブランドのモデルになってほしいと猛アタックした。
松本さんの長女 オリビア・バーガウアーさん(53)。
(バーガウアーさん)
「『弘子が着た服はみんなが欲しがる』なんて言われました。
 母を通して
 フランス人は日本の文化の洗練された美しさに興味を持ったんだと思います。
まだモデルと言えば白人女性ばかりの時代に
日本人を起用したヨーロッパのブランドはカルダン氏が初めてだった。
当時珍しかった男性モデルや黒人女性モデルも相次いで起用し
ファッション業界に多様性をもたらした。
さらに
当時開放政策が進められていた旧ソビエトや中国に乗り込みいち早くショーを開催。
欧米の最先端の音楽やファッションを熱望していた若者たちから絶大な支持を得た。
新進気鋭のパリのファッションデザイナー クリストフ・ギヤーメさん(42)。
「まさに60年代のファッション業界を改革した人です。」
カルダン氏と同じくギヤーメさんも自身のブランドに多様なモデルを起用している。
(ギヤーメさん)
「カルダン氏の影響は大きいです。
 ファッションは民主化さsれるべきで
 現実世界と離れてはいけません。」
ファッション業界に新しい風を吹き込んだカルダン氏。
フロンティアを追い求め続けた姿勢は次の世代に着実に引き継がれている。
(映画「ライフ・イズ・カラフル」)
「幸せになれる唯一の方法は働き続けることだよ。
 私は決して立ち止まらない。
 人生の終わりをただ待つのはごめんだね。」




コメント