secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

まほろ駅前多田便利軒

2011-06-19 20:06:33 | 映画(ま)
評価点:63点/2011年/日本

監督・脚本:大森立嗣

隠れた良作になりえたはずなのに、二つの点で凡作に成り下がってしまった。

まほろ駅から走って数分にある便利軒を営む多田(瑛太)は、ある日チワワを預かるように頼まれる。
別の依頼中、チワワを逃がしてしまった多田が捜すと、幼なじみの行天(松田龍平)がチワワを抱いていた。
行天は中学の頃、多田が誤って小指を怪我させた相手でもあった。
ひょんなことから、行天が多田の便利屋を手伝うことになるが。

ミスター・ノーバディ」をもう一度見ようと思って、映画館に行ったところ時間が合わなくて、これを観ることになってしまった。
映画館に問い合わせて「ノーバディは来週も公開していますか」と聞いたのだが、答えは未定。
とりあえず「まほろ」を観ることになった。

とはいえ、今年はじめての邦画の鑑賞となった。
他の大々的に公開している日本映画よりは、こちらのほうが断然期待値は高かった(ぎりぎり見てもいいかなレベルだが)。

▼以下はネタバレあり▼

まほろ、という街のモデルになったのは東京都の町田である。
東京に住んでいない僕にとってそんなことはどうでもよい。
街の魅力を蕩々と語る気にはどうしてもなれない。

この映画は一見するとひどく緩く見える。
何も描いていないように、ただだらだらと続くような展開だ。
事件らしい事件は、あるようでない。
感動的な場面もほとんどない。
日本映画としては、よくある文化性の低いお涙ちょうだい映画にはなっていない。
その意味では、映画を年に一度しか見ないような人にとってはメンを食らっただろう。
瑛太を見に来たのに、龍平を見に来たのに、とちょっと肩すかしを食らったかも知れない。

この映画の一つの失敗は、二人の役者に頼り切ってしまったことだ。
商業的にも、映画の内容も、二人の役者がいなければほとんど映画として成り立たないような展開にしてしまった。
ガラスを割られて「なんじゃこりゃ!!」と瑛太が叫んで、「誰かのまね? 全然似てないんだけど」と龍平が返すというようなシークエンスからそう書くのではない。
人物が持つ空気を、役者が引き出さなければほとんど間が持たないという意味からだ。
観ている観客のモティベーションが、二人の役者、という以外に持ちようのないシークエンスが多すぎる。
よって行天であろうと、多田であろうと、龍平と瑛太でなければ、観られない。
それだけ役者がすごいって?
それは違うだろう。
役者がすごいのではなく、監督に明確なビジョンがないからだろう。
そんなふうにしか受け取れないシークエンスが多すぎた。

そう思えるのは、この映画は非常にしっかりとしたプロットがあるからだ。
多田は便利屋を営んでいる。
1時間2000円で、何でもする。
ペットを預かったり、バスの運行状況の調査をしたり、塾帰りの小学生を送り迎えしたり。
何でもするということは、それは何もできないということに他ならない。
要するに彼は生きる術や指針を持たずに生きているのだ。

それに対して行天はそこへ転がり込む。
行天のほうが、多田よりもはるかに「便利屋」に向いている。
物怖じしないし、他人と深く関わることをしようともしない。
ドライに、けれども、自分の考えのままに行動する行天は、まさに便利屋なのだ。

この二人には共通の過去がある。
中学生の時に、多田が行天の小指をケガさせてしまったのだ。
彼は小指を見せながらこう何度も言う。
「小指が痛い」。
けれども、こうもつぶやくのだ。
「傷は治らないけれどももう痛くはないんだ」

二人にはこの小指に象徴される過去がある。
多田は自分の不注意で子どもを死なせてしまい、離婚してしまった。
行天もまた、自分の子どもを結果的に捨てることになった。
二人は多大なる傷を負いながら、まほろで生きているのだ。
「もう痛くない」と言えるまで。

多田は行天に自分の過去を告白するシークエンスがある。
僕はこの映画の最も見たくない場面だと思う。
なぜなら、過去をありのままに告白するのはあまりにも「説明的」すぎるし、多田の過去は他人に語れるほど軽くないからだ。
とはいえ、告白した後は行天をそばに置いておけない。
自分の過去をさらけ出して、裸の状態でつきあえるほど多田は無邪気ではないからだ。

一年後、行天を再び便利屋として住まわせる。
これは彼が一年で少なくとも「裸の状態」ではなくなったことを示唆する。
時間は人を癒すのだ。
言い換えるなら、時間は人の悲しみを風化させるのだ。

子どもをだしに麻薬を運ばせていることに強い怒りを感じるのは二人の過去があるからだ。
対立を描くなら、スマートに裏社会を牛耳る星は、子どもを根こそぎ奪う諸悪の象徴である。
一方、地べたをはいずり回るような多田と行天は、子どもをいい加減に扱いながらも、子どもを守ろうというスタンスがある。
両者が対立するのは必至であるのもうなずける。

それと同時に、母親というキィワードも重要だ。
甘やかせて犯罪者にしていく山下の母、そして由良を自分の飾りだとしか考えない母親。
虐待をし続けていたという行天の母。
彼女たちにあるのは、愛するが故の罪である。

ゆるく、漠然とした物語には、しっかりとしたプロットがある。
だから見ていても不快にはならない。
ただ、説明的すぎる描写をちょこちょこ入れたがったり、二人の役者に頼り切った演出が残念にさせている。
由良の子役については、もうひどいレベルだ。

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