イスラエル占領地ナブルス。
自爆攻撃へ向かう二人の若者の48時間
「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」鑑賞後、京都シネマへ・・・・・。「パラダイス・ナウ」を鑑賞。気になっていた作品のひとつだ。
2005年、アカデミー賞外国映画賞候補に、初めてパレスチナ国籍の映画が選ばれた。その作品が『パラダイス・ナウ』である。
ところが、アメリカ合衆国は、パレスチナという国家を認めていないアカデミーは無い国の作品は選べないのだが・・・・。この作品は合作ということもあって、候補になれたいきさつがある。ところが、自・爆・攻・撃での被害者である、イスラエル人の遺族から「この映画は、自爆テロを正当化しており、危険なプロパガンダだ」という内容の嘆願書を提出してのノミネート撤回の抗議が起こった。何とアカデミー賞授賞式前のことだ。
そんな作品「パラダイス・ナウ」はパレスチナの二人の若者が自・爆・攻・撃に向かう48時間の葛藤と友情を描いた物語、世界各国の映画祭で上映され、論争を引き起こしている。
「平等に生きられなくとも平等に死ぬ事はできる」 (ハーレド)
「尊厳のない人生・・・・侮辱され無力感を感じながら生きていく。
この抑圧の中で生きているのなら・・・不正を終わらせる道を見つけるべきだ」
(サイード)
「ここでの生活は牢獄と変わらない」 (サイード)
「地獄で生きるより、頭の中の天国のほうがマシだ。今は死んだも同然」 (ハーレド)
「占領者が犠牲者だと?彼らが犠牲者を演じるなら、僕も同じように犠牲者になるしかない。そして殺人者に・・・・」 (サイード)
《物語》 イスラエル占領地のヨルダン川西岸地区の町ナブルスーー貧困で人々は苦しみ、時折ロケット爆弾が飛んでくる。
幼馴染みのサイードとハーレドは、ナブルスのほぼ全ての若者がそうであるように、暇をもてあましている。修理工として働いているものの、そこには未来も希望もなく、貧しい家族の生活を助けるために出来る事はなにもないあるのは、閉塞感とフラストレーションと絶望感がまぜこぜ。どん底の生活。占領下に生まれ、占領下で暮す。ナブルスは四方八方、すべてコンクリートの壁と有刺鉄線に囲まれているのだ二人の生活の中心にあるものは、占領という事実だけ。
ある日、二人はいつものように別れ、それぞれのに戻る。サイード宅に、客が待っていた。その客とは、自・爆志願者をつのる、パレスチナ人組織の交渉代表者ジャマル。「ハーレドと君は、テルアビブで自・爆・攻・撃を遂行することになる」と告げられる。
いよいよ明日、二人はを持ってイスラエルへ入り、自・爆し、殉教者となる
監督・脚本:ハニ・アブ・アサドが語る。
パレスチナ人にとっては、自・爆という行為は抵抗の手段。そしてその行為は殺す者であり、と同時に殺される者という矛盾した行為である。そんな矛盾を抱えた人間の姿を撮るべきだと思った。占領下にいる彼らにとって、天国ではない。自・爆して、数秒後に死ぬということが天国なのだ
しかし彼らは一度失敗する。死んで天国に行くはずだったが、手違いで離れ離れとなる。お互いに町を探し回るそうしている間に、死というものを客観的に考えてしまう。死とは?殉教とは?自・爆攻・撃とは?一体何んだ
占領とは、民族浄化だと考えている。彼らは我々を国境の外に追い出したわけで、人として扱わない。そして我々を押しのけて下に見てきたのだ。そんな現状を知ってもらいたい。
未来のない状況、押さえつけられ、諦めさされて、これで我慢しろといい続けられる日々の若者たちの心の奥は・・・・・。
フィクションではあるが、現実のかけらがちりばめられている。こんな状況に置かれたら、皆どうするか?と考えられたら、ひょっとして同じようなことを考えて、行動を起こすかもしれない。大きな力に押しつぶされて、自分に力がない。そんな状況のなか、尊厳をもって生きていくには高いモラルの維持が必要となる。
ナルブス、ナザレで、撮影された本作は、リアルではあるけれど、抑制された演出をした。怒りや悲壮さを昇華させている。決して、観客をあおろうとしたものではない。
辛い経験をした人は叫びたいだろう。でも叫べば耳をふさいでしまうに違いない。静かに語りたいのだ。
自・爆・攻・撃 がテーマだが、確かに物静かな作品だった。厳しい状況で生きる若者の苦悩ややるせなさがじわじわと伝わるといういう感じだ。現在も中東諸国で起きている様々な事件も、ニュースを通じて、ほんの僅かしか知ることはない。そんな中で、このような作品を鑑賞して、何故このような自・爆・テ・ロという自ら命を絶とうとしている恐ろしい行為についての心情が少し見えたように思う。事件の背景に隠された人々の究極な選択がこの映画を観た人々に通じる事を願う。
※タイトルの「パラダイス・ナウ」も矛盾が孕んだものだと、監督は言う。
パラダイス・ナウ 公式HPです