ある音楽人的日乗

「音楽はまさに人生そのもの」。ジャズ・バー店主、認定心理カウンセラー、ベーシスト皆木秀樹のあれこれ

ぼくの「知的欲求」の芽

2005年10月08日 | 随想録

                  ♪一昨日は大阪に行ってました。今回は電車で。車窓から見える明石の海、この写真よりずーっときれいだったんですよ。


 ぼくの実家は、決して裕福ではありませんでした。
 いや、むしろ贅沢なんかさせて貰えるような環境ではなかった、と言ったほうがいいのかな。
 秋祭りの時に、屋台で売っていた300円のブリキの車のおもちゃが欲しくて欲しくて、父にねだりにねだってみたけどやっぱり買って貰えなくて、泣いてしまった記憶があります。幼稚園の時くらいだったかな。(しつけ、という一面もあったのでしょうね)
 欲しいものがあっても、まず我慢しなければならないような環境でした。おもちゃやお菓子やマンガなんて、ほとんど買ってもらったことはありません。でも、その頃はどこの家でも似たり寄ったりだったんですけどね。


 そんな家庭だったけれど、ぼくが小学校に上がった頃、1歳違いの姉には「子供文学全集」、ぼくには「偉人の伝記シリーズ」を毎月1冊買ってくれることになりました。
 ぼくらのためにわざわざ本屋さんが配達してくれるんです。ちょっと得意な気分でした。
 本が来る日(たしか日曜だったと思う)は朝からなんとなくソワソワ。本が来るやいなや、むさぼるように読んだものです。
 相変わらず贅沢なんかさせて貰えなかったので、姉と本を交換したり、同じ本を何度も何度も読んだりしました。


 この時の幸福感、これが今の自分を形作っているような気がします。
 ぼくが今、「お金がなくても幸せなことって有り得る」と思っているのは、こういう体験をして、幸福感を味わったことがあるからでしょうね。
 それから、心を刺激してくれるものや、意欲をかきたたせてくれるものに対しては、積極的に目を向けられるようになったこと。しかも、与えられることなんてあまりないから、自分から貪欲に近づこうとすることも覚えました。
 そして、選んだのが(いや、用意されていたことなのかもしれないですね)、音楽だった、と思ってるんです。


 両親が、「貧乏」でも本をたくさん読むことを、結果的にでも後押ししてくれたこと、ぼくが音楽に興味を持った時に決して文句を言わなかったことには今では深く感謝しています。
 知的欲求を追求することに対しては、お金がなくても制約することのなかったぼくの親の考え方、そのありがたみの重さが年を重ねるごとにわかってきたような気がしている今日この頃なんです。


コメント (2)
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