今回は2月6日のブログの続きです。
森喜朗東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の発言が女性蔑視・女性差別であり、辞任を求める声が高まっています。また、大会ボランティアを辞退する人もいます。
私は辞任すべきかどうかについては、どうこう言うつもりはありません。
ただ、今回の発言についての問題を指摘する論議に対して、ある違和感を覚えます。
それは、森会長の「女性が入った会議は長くなる」という発言を不適切だとする側も、人間を男性か女性かの二分法を前提にしているという点です。
私たちの社会には、性的マイノリティの人もいます。
たとえば、生物学上は男性でも、自分は女性だと性自認する人もいます。
また、その逆もあります。どちらにも決められない人もいます。
この実態に照らして、いま性的マイノリティ理解の学習をする中学校が増えています。
当事者の方を呼んできて、子どもに性的マイノリティの友だちの存在に気づかせる講演をしてもらったり、体験談を語ってもらったりする学習を行います。
性のグラデーションを考慮せず、「男性」「女性」という分け方だけで、この森発言のことを話題にされるとき、当事者は「わたしはどちらに入るの」と苦しむのではないでしょうか。
「わたしのことは論議の枠外に置かれている」という疎外感をもつのではないでしょうか。
その考えに対しては、「いいえ、私たちは一般的な男性、女性について、森発言を問題にしているだけである」という反論がありそうです。
しかし、人権尊重というとき、「誰一人として取り残さない」ことが大原則です。
マイノリティの人権を尊重するとき、多くの人(マジョリティ)は「わたしには関係がない」と思っています。人権を侵害されるのは、常に少数派なのです。
だから、マイノリティというのです。
それに、国際オリンピック委員会が唱える多様性の尊重とは、性差、年齢、人種、国籍などに一切関係なくお互いに尊重しあうというものです。
それは、性的マイノリティの人たちも包摂しています。
つまり、個人(個性)として人間を大切にするのです。
個人差は性差を超えるのです。
その視点に基づき、本当は国際的な非難が森発言の日本に向けられているのだと、わたしは考えています。
だから、日本国内で今回の発言を女性差別だと批判するときには、性的マイノリティの存在を意識した上で、個人個人で人は異なるのに、「女性は」ときめつけ・偏見で発言したことの問題性を指摘するべきです。
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