
パラリンピックで最近は少なくなりましたが、わたしはメディアの報道のしかたにずっと違和感を覚えていました。
「足がないのにがんばっている」
「手がなくても入賞した」
「障害があるのに、努力してスポーツで記録を出した」
このような「がんばる障害者」を前面に押し出し、同情や「かわいそう」をもとに、その上で「よくがんばっている」という考えや発言を、当事者たちはどう受けとっているでしょうか。
「片足がなくても、歩いてますよ。これがわたしの歩き方です」
「手がなくても不幸ではないですよ」
このように感じている当事者たちにとって、メディアの報道の仕方には納得がいかないことが多いのです。
大阪の学校でなら、通常の学級に障害のある子がいて、おもにクラスで学校生活を送っています。
「ともに学び、ともに育つ教育」の、過去からの分厚い実践があります。
仲間関係が高まり、深まった学級では、障害のある仲間もクラスメートとともに学び、ともに育まれています。
そこでは、「障害があるのにがんばっている」というとらえ方をクラスの子はしません。
「いてあたりまえ。○年○組の仲間やで」
このように感じている当事者たちにとって、メディアの報道の仕方には納得がいかないことが多いのです。
大阪の学校でなら、通常の学級に障害のある子がいて、おもにクラスで学校生活を送っています。
「ともに学び、ともに育つ教育」の、過去からの分厚い実践があります。
仲間関係が高まり、深まった学級では、障害のある仲間もクラスメートとともに学び、ともに育まれています。
そこでは、「障害があるのにがんばっている」というとらえ方をクラスの子はしません。
「いてあたりまえ。○年○組の仲間やで」
ここには、障害の有無に関係なく、全員が学級の一員であるという大原則があります。
障害児にとって生きづらい社会だからこそ、学校では仲間づくりを進めるインクルーシブ教育が重要なのです。
この教育には、だれ一人として排除しないという教育の信念が息づいています。
つまり、パラリンピックでの上記のようなメディアの報道の仕方に対しては、障害者の当事者は、「障害のある人」と「障害のない人」を分け、障害者を社会の隅に追いやっているという報道側の固定的な意識を敏感に感じとるのです。
つまり、パラリンピックでの上記のようなメディアの報道の仕方に対しては、障害者の当事者は、「障害のある人」と「障害のない人」を分け、障害者を社会の隅に追いやっているという報道側の固定的な意識を敏感に感じとるのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます