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自分を見つめること、つまり自分との対話では、自分の喜怒哀楽の気持ちや感情を抑え込まず、否定せず、そのまま認めることが必要です。
ところが、幼いときからの育ちの中で「がまんしなさい」と親から何度も言われてきた子は中学生になると、弱音を吐いたり、しんどいとかいうのはよくないと思い込んでしまっています。
本来は、自分との対話で自分の意思やこうしたいという願いを出せるようになるのです。
でももし自分の意思や願いを自分自身が把握できていないと、対人関係では相手への要求や頼みたいことがあやふやになってしまい、意思表示がうまくできなくなります。
反対に、自分が相手に伝えたいことがはっきりしている子は、相手への伝え方も変わり、コミュニケーションが円滑にとれるようになるのです。
ただ、そのとき条件があります。
自分と他者は同一ではないということをわかっていることです。
教師と生徒の例を当てはめてみましょう。
生徒が相談してきたとき、いくら教師が生徒の立場に立ちきって、心を砕いてかかわろうとしても、人は誰もが自分の経験から築いてきた枠組みでものごとをとらえようとします。
教師としての経験があればあるほど、その枠は強固になってしまいます。
それは、自分が体験したことはたしかな事実だからです。
そうなると、生徒の話を自分自身の経験を基準にして、「こうにちがいない」という枠内で話を聞き、アドバイスを生徒にしようとするのです。
「うん、よくわかる」とか「そういうとき、わたしはこうしたよ」「そうするべきだよ」「あなたのために、いうけれど・・・」となります。
これでは、相談をしにきた生徒の心は教師から離れていきます。
教師と生徒だけで無く、大人と子ども、大人同士の会話でも同じです。
基本的に、自分は他者のことは理解できないし、わかりあえないものなのです。
相手の話を受けとめ、相手を尊重するためには、「わたしは」という視点ではなく、「あなたは」という視点でかかわることがどうしても大切になるのです。
「(わたしには)わかるよ」ではなく、「(あなたが)そう思うのね、そう感じるのだね」であり、「同感」ではなく、「共感」したいと思って対話をするのだという意識を強くもたなければなりません。
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