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人は初めてのことでも、試行錯誤し失敗もして、一方でうまくいくこともありながら、技術やノウハウを学び、改める必要があるときは改めて、改善をしていきます。
私も教員の頃は中学生を対象に英語の授業を担当していました。一人でだいたい5クラスの授業をしました。
同じ単元の同じ授業を5回重ねることになります。
1回目のクラスの授業よりも2回目の授業、2回目の授業より3回目の授業・・・
というように授業を重ねるうちに、前回のクラスの授業でうまくいかなかったことをあらためていくことができました。
すると、生徒の反応も変わってきます。回数を重ねるほど、同じ内容の授業でもブラッシュ・アップされていくのです。
ところが、小学校の教員は自分の担任するクラスを対象に、ほとんどの教科の授業をするだけで、基本的にはほかのクラスで同じ授業はしません。
つまり、一つの授業を小学校の場合は1回きりですが、中学校の場合は何度もできることで改善していくことができるのです。
さて、そのような小中の違いはあるのですが、共通して言えることもあります。
それは、学校でのどんな授業にでも言えることですが、授業者(教員)にとって「わたしの授業に完成はない」ということです。
たとえば20歳代のはじめに教員になった人が、授業について研修や研究を重ねて、かりに児童生徒から「よくわかる授業」とか「楽しい授業」とか「ためになる授業」という感想をもったとします。
すると、生徒の反応も変わってきます。回数を重ねるほど、同じ内容の授業でもブラッシュ・アップされていくのです。
ところが、小学校の教員は自分の担任するクラスを対象に、ほとんどの教科の授業をするだけで、基本的にはほかのクラスで同じ授業はしません。
つまり、一つの授業を小学校の場合は1回きりですが、中学校の場合は何度もできることで改善していくことができるのです。
さて、そのような小中の違いはあるのですが、共通して言えることもあります。
それは、学校でのどんな授業にでも言えることですが、授業者(教員)にとって「わたしの授業に完成はない」ということです。
たとえば20歳代のはじめに教員になった人が、授業について研修や研究を重ねて、かりに児童生徒から「よくわかる授業」とか「楽しい授業」とか「ためになる授業」という感想をもったとします。
しかし、「40才にして、わたしの授業は完成しました」ということはありえません。
教職を40年近く続ける間に、つねに社会は変化しています。知識や技術は常に更新されます。子どもの様子もかわってきます。
その点で、学校の授業はつねに変わっていきますから、教員には常に授業を研究し、改善を重ねる探求的な態度が求められるのです。
ですから、わたしは教員を続けるのに必要な資質は「探求する態度・実行力」であると考えています。
ひるがえって、「探求」はどんな仕事にも、多かれ少なかれ求められると思います。
人は経験を重ねるとうまく仕事ができるようになります。それとともに、仕事に慣れてきます。
それでも、人は慣れてしまったらダメだと思います。「だいたいこれくらいにしておくか。そのほうが樂だし・・・」。
少しでもこう思ってしまえば、その人はその仕事をもう終了した方がいいのです。
あえて楽な道を選ばず、考えながら、苦しみながら、工夫を重ね仕事に精進するのが「仕事人」とか「プロ」だと言えるでしょう。
教職を40年近く続ける間に、つねに社会は変化しています。知識や技術は常に更新されます。子どもの様子もかわってきます。
その点で、学校の授業はつねに変わっていきますから、教員には常に授業を研究し、改善を重ねる探求的な態度が求められるのです。
ですから、わたしは教員を続けるのに必要な資質は「探求する態度・実行力」であると考えています。
ひるがえって、「探求」はどんな仕事にも、多かれ少なかれ求められると思います。
人は経験を重ねるとうまく仕事ができるようになります。それとともに、仕事に慣れてきます。
それでも、人は慣れてしまったらダメだと思います。「だいたいこれくらいにしておくか。そのほうが樂だし・・・」。
少しでもこう思ってしまえば、その人はその仕事をもう終了した方がいいのです。
あえて楽な道を選ばず、考えながら、苦しみながら、工夫を重ね仕事に精進するのが「仕事人」とか「プロ」だと言えるでしょう。
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