わたしが少年さらに青年の頃は、日本の高度経済成長期で、バブル景気の頃でした。
1970年代前後には、経済成長のつけとして、公害病が社会問題となり、人びとの健康をむしばむようになり、大きなとりあげられました。
しかし、その対策は「たれながし」にしていた工業廃水や大気汚染を適正に管理して、クリーンなものにして、経済発展を持続させるもので、一定程度の成功をおさめてきたのが日本経済でした。
その際には、CO2濃度などはすでに課題にはなっていましたが、今でいう地球温暖化対策ほどは世界中で問題視されるようにはなっておらず、今ほど深刻に捉えられていませんでした。
しかし、その後、化石燃料資源が有限であることや温室効果ガス対策が世界が認識する課題となり、国連もSDGSを提唱し、現在に至っています。
でも、過去の発展を謳歌してきた私たち世代が過剰に消費し尽くした後の温室効果ガス社会の
尻ぬぐいしなきゃいけない。不条理じゃないか。
そのような意識を、いまの若い世代が抱いているのでないかと、わたは最近よく思います。
また、若い世代の老後への不安も、今の高齢者への反感につながっているのではないかと考えます。
年金、医療制度への不満が高齢者への嫌悪感に結びつき、高齢者の所作や振る舞いが、いわゆる「老害」という捉え方になるのではないと思います。
私自身もスーパーのレジに並ぶ前に、目の前をゆっくりと歩き、道を塞いでいることに無自覚な後期高齢者にいらつくこともあります。
一方で、国内旅行や海外旅行にでかける元気な高齢者が増え、高齢者はいたわるべき存在ではなくなり、下の世代からは反感が生まれ、嫌悪の対象となっているとも考えられます。
年齢をとることへの恐れや憎悪のようなネガティブな感情、高齢者を何もできなくなった弱者のように見下す見方が「老害」視線を生み出すとも考えることができます。
とはいえ、考えてみれば、誰もがいずれは高齢者になります。
日本の高齢者はこれから高齢化社会に向かう世界のパイオニアです。
私たちは非常に難しい立場の主体としてどういう社会にしていくか、自分自身に問い直しながら考えていく必要があります。
きめつけや偏見は誰の心にもひそんでいます。
だからこそ、年齢や性別といった属性で人をひとくくりにするこではなく、一人ひとりを個別に見るよう努力することが、みんなに求められます。
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