ある小学校のクラスの課題は、子どもたちがものや公共物を大切にしないことでした。
子どもたちは運動場でクラスボールを使い、仲良く、楽しく遊び、休み時間のチャイムに間に合うように教室に帰ってきます。
でも、ボールを運動場に置いたまま戻ってくるのが難点でした。
学級担任の先生は、どうしたものかと考え、一つのアイデアを示しました。
ボールに「ピーコ」という名前をつけました。
それからは、子どもたちに変化が出ました。
「ねえ、ピーコ、もうすぐ運動場に行くからね」
「ピーコ、いっしょに教室へ帰るからね」
子どもたちは、それはそれは、ボールを抱っこしたりして大事にするようになりました。
このエピソードからわかるように、ボールに名前をつけたことで、子どもたちにはボールが生きているクラスの友だちのように思えるようになったのでした。
つまり、ボールに命が吹き込まれたのです。
だから、名前をつけることを「命名」というのです。
それぞれの人間に名前がついていることで、それぞれに命を持っているのです。
名前とは人に絶対的な意味をもたせるのです。
東洋では、絶対的な働きを「命」(めい)といいます。
大いなる宇宙からの働きかけを「天命」といい、個人の肉体を「生命」といいます。
日本では古くからその人の生涯に絶対的な意味をもたせてきました。
生きていくには命を使うから「使命」であり、命を運ぶから「運命」なのです。
こう考えれば、命とはいかに価値のあるものかということが理解できるのです。
国際的な紛争、戦争で生きることが阻まれるだけでも、命を粗末にするのであり、命の絶対的意義を否定することになるのです。
そのような話を中学生に話したことがあります。
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