わたしは生まれてから現在まで、ずっと大阪北部の同じ地域に住んでいます。
一度も引越しをしたことがありません。
いまの住居も一度は建て替えをしましたが、ずっと同じ番地に住んでいるのです。
つまり、今住んでいる地域が、わたしのふるさとです。
しかし、長く生きている間に、まわりの風景はだいぶ変わりました。
子どもの頃は、庭に出ると家の前には、大きな山の景色が開けていました。
一度、小学生のとき地域で夜に民家の火事がありました。
祖父が「火事や!」と叫んだので、すぐに外へ出ました。
すると、谷を挟んで300メートルほど離れた火事でしたが、なんとうちの家の前にそびえたつ山は、真っ赤な山になっていました。
火事の炎が山で反射して映っていたのです。
いまでも、その恐ろしい光景ははっきりと思い出します。
でも、今はその山が少し削られ、国道が通り、車やダンプがよく通ります。それとともに空気も汚れてきました。
子どもの頃の夜空は、空気が澄んでいて、まさに満点の星が見えました。
夏には、蛍がたくさん家の周りを飛んでいまし
その蛍の光を眺めながら、眠りにつきました。
でも、今は、最近でこそ少しは蛍を見ることができますが、子どもの頃に比べると格段に少なくなりました。
昔は、人の前にふつう姿を現すことがなかった鹿をしょっちゅう見かけます。
時間の経過が、自分を追い越していくようで、淋しくなります。
時代というものは、刻々と変化していくもので、ふるさともまたかつての面影をかき消すように変わっていくのです。
と、わかってはいるのですが、感傷的になるのは、ふるさとの風景が変わり、わたしの思い出だけが残り、行き場を失っているからかもしれません。
日本社会は成長期を終え、停滞期に入っているとも考えられますが、わたしは成熟期に入ったと思いたいです。
爛熟期に入ったと考えてもいいでしょう。その時期に入り、失われていくものに寄せる想い。
それは、変わっていくふるさとに対する大人たちの哀歌のようです。