先週末は事務所のある大森から六郷にかけてのあちこちで鎮守祭りの様だ、一~二台の神輿と子供神輿、それに笛太鼓がついて廻る、今ではお囃子が軽四輪の荷台に乗って通る、静岡の方ではあまり神輿は無くほとんどが屋台だ
此処に太鼓と笛が乗って老若男女でゆっくりと引いて行く、神輿担ぎの掛け声は地域で違うが祭囃子は同じ様に聴こえるのだが実際は違うのかもしれない、
明るく上調子で楽しいお囃子なのだが私には何か哀愁があるという感じがする、言い換えると「寂寥感」の様な音に聞こえるのはどう言う訳だろうと考えてみた、
恐らく子供の頃あまりいい思い出が無かった事が大きいのだろう、我が家は村の中ではかなり貧乏の方で親父は三男坊なので田畑は無く軍需工場に就職し敗戦で零落して故郷に戻って来たのだが持ち前の鼻っ柱のせいで村八分ではないがどちらかと言えば嫌われ者だった(後で聞いたので“ようだ”と言う事だが)
仕事は自分の記憶では炭焼きとか樵や野良仕事の手伝いとお袋の裁縫で生計を立てていたらしいがそれでは足りず生活保護を受けていたらしい、戦前の風習からまだまだ抜けていない農村では立派な半端者である、今ネット若者が言う「ナマポ」と言う様な半端者扱いだが共産党に傾倒していた親父は「国民の権利だ、何を小さくなって生きる必要がある」と公言して憚らなかったらしい、これも後で姉に聞いたのだがその悪評は家族全体に向けられる、姉達は多感な年代だったのでもっと辛かったのではないかと思う、
自分が小学校に上がった頃の話、村の祭りは各集落毎にある小さな神社毎に赤飯と煮しめ、甘酒を村人に振る舞う、子供たちには小さな包みに入れたお菓子を配るのだがそれは各戸の寄付で行われているのだが生活保護家庭の我が家は免除されていたらしい、そんな事は知る由もない私は友達と一緒にお菓子と振る舞いの赤飯をもらいにいったのだが同級生から「おまえの家は寄付も出さんで貰うものだけは貰うんか」と面と向かって言われ訳も分からずもらったお菓子を返して家に帰ったことが有る、めそめそと泣いて帰った私の話を聞いた親父が「ガキがそんな事を考えるわけはない、あの野郎が(言った同級生の父親の名前)が家で言っているからだろう、怒鳴り込んでやる!」と立ち上がったのをお袋が泣いて止めたことがあったがそれから祭りは遠くでお囃子だけ聞く行事になった、
これも中学になって姉達も独立しお袋も他界してからは夜店を冷やかす程度の生活にはなったのだがやはり祭囃子は近くに行っても妙に遠景を眺めるような感覚で聞いていた、
二十歳を過ぎたころテレビで「天保水滸伝」を見たのだがラストシーンで平手造酒が利根川の暗い河原でなます切りになる場面があり、川向うのあかりと遠く佐原囃子が流れていたのが印象的だった、もしかしたらこれも思い違いかもしれない、当時好きだった「真崎守」と言う漫画家の短編の中で「祭囃子が聞こえる」と言うのが有って彼の絵の印象が重なっているのかもしれないが私の頭の中では相手がもういなくなった葦の中で見えない相手に刀を振り廻している画像は確かに平手造酒である、
役者は確か近衛十四郎だったと記憶するが好きな役者だった、もっとも一番好きなのはテレビの素浪人月影兵庫で、相方の焼津の半次の品川隆二と名コンビで再放送も何度も見ていたのだがすでに亡くなってずいぶん経つ、
松方弘樹に言わせるとどうしようもない親父だったそうだが昔の役者には結構そんな話を聞く、中村橋之助なんぞは可愛いもんだと言うのは不謹慎か
此処に太鼓と笛が乗って老若男女でゆっくりと引いて行く、神輿担ぎの掛け声は地域で違うが祭囃子は同じ様に聴こえるのだが実際は違うのかもしれない、
明るく上調子で楽しいお囃子なのだが私には何か哀愁があるという感じがする、言い換えると「寂寥感」の様な音に聞こえるのはどう言う訳だろうと考えてみた、
恐らく子供の頃あまりいい思い出が無かった事が大きいのだろう、我が家は村の中ではかなり貧乏の方で親父は三男坊なので田畑は無く軍需工場に就職し敗戦で零落して故郷に戻って来たのだが持ち前の鼻っ柱のせいで村八分ではないがどちらかと言えば嫌われ者だった(後で聞いたので“ようだ”と言う事だが)
仕事は自分の記憶では炭焼きとか樵や野良仕事の手伝いとお袋の裁縫で生計を立てていたらしいがそれでは足りず生活保護を受けていたらしい、戦前の風習からまだまだ抜けていない農村では立派な半端者である、今ネット若者が言う「ナマポ」と言う様な半端者扱いだが共産党に傾倒していた親父は「国民の権利だ、何を小さくなって生きる必要がある」と公言して憚らなかったらしい、これも後で姉に聞いたのだがその悪評は家族全体に向けられる、姉達は多感な年代だったのでもっと辛かったのではないかと思う、
自分が小学校に上がった頃の話、村の祭りは各集落毎にある小さな神社毎に赤飯と煮しめ、甘酒を村人に振る舞う、子供たちには小さな包みに入れたお菓子を配るのだがそれは各戸の寄付で行われているのだが生活保護家庭の我が家は免除されていたらしい、そんな事は知る由もない私は友達と一緒にお菓子と振る舞いの赤飯をもらいにいったのだが同級生から「おまえの家は寄付も出さんで貰うものだけは貰うんか」と面と向かって言われ訳も分からずもらったお菓子を返して家に帰ったことが有る、めそめそと泣いて帰った私の話を聞いた親父が「ガキがそんな事を考えるわけはない、あの野郎が(言った同級生の父親の名前)が家で言っているからだろう、怒鳴り込んでやる!」と立ち上がったのをお袋が泣いて止めたことがあったがそれから祭りは遠くでお囃子だけ聞く行事になった、
これも中学になって姉達も独立しお袋も他界してからは夜店を冷やかす程度の生活にはなったのだがやはり祭囃子は近くに行っても妙に遠景を眺めるような感覚で聞いていた、
二十歳を過ぎたころテレビで「天保水滸伝」を見たのだがラストシーンで平手造酒が利根川の暗い河原でなます切りになる場面があり、川向うのあかりと遠く佐原囃子が流れていたのが印象的だった、もしかしたらこれも思い違いかもしれない、当時好きだった「真崎守」と言う漫画家の短編の中で「祭囃子が聞こえる」と言うのが有って彼の絵の印象が重なっているのかもしれないが私の頭の中では相手がもういなくなった葦の中で見えない相手に刀を振り廻している画像は確かに平手造酒である、
役者は確か近衛十四郎だったと記憶するが好きな役者だった、もっとも一番好きなのはテレビの素浪人月影兵庫で、相方の焼津の半次の品川隆二と名コンビで再放送も何度も見ていたのだがすでに亡くなってずいぶん経つ、
松方弘樹に言わせるとどうしようもない親父だったそうだが昔の役者には結構そんな話を聞く、中村橋之助なんぞは可愛いもんだと言うのは不謹慎か