クリスマス3連休にバッドタイミングな暗い記事で申し訳ないです。
アッピア自身は元気に過ごしていますので、皆様も楽しいクリスマスをお過ごしくださいね。
さて、つづきです。
あれから1週間、いよいよ検査結果がわかる日、2003年12月18日は、冷たい雨の降る日でした。
ダンナと二人電車に乗って健診センターのある駅で降り、十数分の道のりを無言で傘をさして
下を向いてとぼとぼ歩く。
受付を済ませ、廊下で待つ。途中看護師さんが廊下の私たち二人を覗き込み、診察室に入る。
「アッピアさんご主人といらしています。」とでも話しているのだろうか。
間もなく呼ばれて診察室に入る。いよいよだ。
医師「検査の結果ですが。細胞診の結果は、クラス1から5まで分けられます。1は・・・
(ひとつひとつ説明)。アッピアさんの場合は、クラス4が出ました。(ほぼがんということ。)
・・・・・アッピアさん、大丈夫ですか。」
私とダンナはどういう顔をしていいかわからない、「やっぱりダメだったか。」という思い。
深呼吸しても息が吸えない感じ。私の人生の幕がストーンと降りた感じ。先が真っ暗。
だんだん恐怖に震えてくる。この先どうなるのか。医師が言葉を続ける。
医師「手術になると思いますが・・・希望の病院はありますか?なければこちらで紹介します。
ボクのよく知っている女医の先生で・・・○○医大病院の・・・。」
その病院は、親戚のツテのある病院で、もしもの場合紹介をお願いしようといていた病院。
偶然だが、縁があるということだろう。何となく安心したが・・・。医師はさらに続けて、
医師「・・・アッピアさんの場合は、授乳中ということで、身体の環境が通常とは違い、
とにかく進行が速いようです。もう年末に近いですが、年を跨がずにできるだけ
早く○○医大病院の診察を受けてください。今から紹介状書きます。細胞診のプレパラート
は○○先生に送っておきます・・・・。」
つ、通常とは違うって・・・。進行が速いって・・・・・。何それ。前回の検査から1年経ってないよ。
私(振り絞るように)「今年2月の妊娠中に検査した時はどうだったんでしょう?」
医師「その時は問題なかったですね。今回は明らかに違います。」(だから進行が速いということか。)
進行が異常に速いことは、自分が一番わかっている。授乳中に、以前の良性腫瘍切除跡の部分が硬く
なり出して、他の乳腺炎のしこりはなくなっても、このしこりだけはしつこく残り、
しかもどんどん大きくなっている。気が付いたら脇の下にも大きなぐりぐりがある。
でもまさか乳がんてことはないよね、こんなスピードで大きくなるわけないよね、乳腺炎のなごりだよね、
万一これががんだったら、もう絶対助からないだろうしね・・・・と思っていた。
でも、これが「がん」だったのか・・・。
私、出産前に検査も行ったし、○ケタニの助産師も、保健所の助産師も、脇のグリグリを触りもせずに
「副乳」と言っていたじゃない!私に落ち度ないじゃん!それでも見逃されたということ?
もう手遅れなの?いつ気がつけばよかったの?どのタイミングで病院に行けば助かったの?
診察室を出て、紹介状をもらうために待つ。看護師さんが心配して「大丈夫ですからね。」
一瞬ほっとした。根拠のない「大丈夫」でも声を掛けられただけで少し救われた気持ちがした。
紹介状を受け取り、冷たい雨が降りしきる中、ダンナと二人で来た道をとぼとぼと無言で歩く。
私は我慢できずにダンナに「何か喋ってよ。」「オレだってショックだし何言っていいかわからないよ。」
何だよ、肝心な時に助けてよ!
家に着くと、母が子供の面倒を見ながら待っていた。既に電話で伝えてあったので、結果は知っている。
今日告知される可能性があることも事前に言っていたので、やっぱりダメだったのね、という感じで
衝撃的なショックはなかったと思う。
改めて生後7ヶ月の息子を見た。お座りをして機嫌よく遊んでいた。
蓋をしていた気持ちが一気に湧き出てきた。
この子が歩く姿を見ることはできるのだろうか。
この子が自分をママと呼んでくれる声を聞くことはできるのだろうか。
この子とおしゃべりすることはできるのだろうか。
この子が私を母親だと記憶してくれる歳まで、自分は生きることができるのだろうか。
幼稚園や小学生になる姿を見ることはできるのだろうか。いや、それは多分無理だろう。
もう涙が止まらない。なんで、なんで?この子とはすべてがこれからだというのに。
私はどうなるの?もう全身に転移してすぐに死ぬの?痛くなったり苦しくなったりするの?
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
(いやあ、書いていて辛くなってきた、泣きそうになるわ。)
でも泣いてばかりはいられない。まずは○○医大病院に電話。紹介状がありすぐに診察を受けたい
を旨を話し、紹介先のベテラン女医先生の予約を明日入れてもらう。
まずは良かった。明日病院に行ける。あれこれ考えるヒマはなく明日診察を受け、これからの
ことがわかるはず。
次は人のアサイン。赤ちゃんの息子を見てくれるのは母しかいない。問題はダンナが明日休めないこと。
一大事なのだが、今日休んだので明日はスケジュール上どうしても無理。なので、
急遽、実弟と叔母に明日同行してもらうことにする。もう親戚巻き込んでのてんやわんや状態。
とにかく明日、すべては明日。それまでは何も考えるまい。
今日は家族に甘えて、子供の顔を見ながら早めに寝てしまおう。
不安と恐怖と動揺と、そして明日への戦闘モードと、もう頭も心もぐちゃぐちゃ。
でも頑張って授乳しながら寝た。
つづく・・・。
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アッピア自身は元気に過ごしていますので、皆様も楽しいクリスマスをお過ごしくださいね。
さて、つづきです。
あれから1週間、いよいよ検査結果がわかる日、2003年12月18日は、冷たい雨の降る日でした。
ダンナと二人電車に乗って健診センターのある駅で降り、十数分の道のりを無言で傘をさして
下を向いてとぼとぼ歩く。
受付を済ませ、廊下で待つ。途中看護師さんが廊下の私たち二人を覗き込み、診察室に入る。
「アッピアさんご主人といらしています。」とでも話しているのだろうか。
間もなく呼ばれて診察室に入る。いよいよだ。
医師「検査の結果ですが。細胞診の結果は、クラス1から5まで分けられます。1は・・・
(ひとつひとつ説明)。アッピアさんの場合は、クラス4が出ました。(ほぼがんということ。)
・・・・・アッピアさん、大丈夫ですか。」
私とダンナはどういう顔をしていいかわからない、「やっぱりダメだったか。」という思い。
深呼吸しても息が吸えない感じ。私の人生の幕がストーンと降りた感じ。先が真っ暗。
だんだん恐怖に震えてくる。この先どうなるのか。医師が言葉を続ける。
医師「手術になると思いますが・・・希望の病院はありますか?なければこちらで紹介します。
ボクのよく知っている女医の先生で・・・○○医大病院の・・・。」
その病院は、親戚のツテのある病院で、もしもの場合紹介をお願いしようといていた病院。
偶然だが、縁があるということだろう。何となく安心したが・・・。医師はさらに続けて、
医師「・・・アッピアさんの場合は、授乳中ということで、身体の環境が通常とは違い、
とにかく進行が速いようです。もう年末に近いですが、年を跨がずにできるだけ
早く○○医大病院の診察を受けてください。今から紹介状書きます。細胞診のプレパラート
は○○先生に送っておきます・・・・。」
つ、通常とは違うって・・・。進行が速いって・・・・・。何それ。前回の検査から1年経ってないよ。
私(振り絞るように)「今年2月の妊娠中に検査した時はどうだったんでしょう?」
医師「その時は問題なかったですね。今回は明らかに違います。」(だから進行が速いということか。)
進行が異常に速いことは、自分が一番わかっている。授乳中に、以前の良性腫瘍切除跡の部分が硬く
なり出して、他の乳腺炎のしこりはなくなっても、このしこりだけはしつこく残り、
しかもどんどん大きくなっている。気が付いたら脇の下にも大きなぐりぐりがある。
でもまさか乳がんてことはないよね、こんなスピードで大きくなるわけないよね、乳腺炎のなごりだよね、
万一これががんだったら、もう絶対助からないだろうしね・・・・と思っていた。
でも、これが「がん」だったのか・・・。
私、出産前に検査も行ったし、○ケタニの助産師も、保健所の助産師も、脇のグリグリを触りもせずに
「副乳」と言っていたじゃない!私に落ち度ないじゃん!それでも見逃されたということ?
もう手遅れなの?いつ気がつけばよかったの?どのタイミングで病院に行けば助かったの?
診察室を出て、紹介状をもらうために待つ。看護師さんが心配して「大丈夫ですからね。」
一瞬ほっとした。根拠のない「大丈夫」でも声を掛けられただけで少し救われた気持ちがした。
紹介状を受け取り、冷たい雨が降りしきる中、ダンナと二人で来た道をとぼとぼと無言で歩く。
私は我慢できずにダンナに「何か喋ってよ。」「オレだってショックだし何言っていいかわからないよ。」
何だよ、肝心な時に助けてよ!
家に着くと、母が子供の面倒を見ながら待っていた。既に電話で伝えてあったので、結果は知っている。
今日告知される可能性があることも事前に言っていたので、やっぱりダメだったのね、という感じで
衝撃的なショックはなかったと思う。
改めて生後7ヶ月の息子を見た。お座りをして機嫌よく遊んでいた。
蓋をしていた気持ちが一気に湧き出てきた。
この子が歩く姿を見ることはできるのだろうか。
この子が自分をママと呼んでくれる声を聞くことはできるのだろうか。
この子とおしゃべりすることはできるのだろうか。
この子が私を母親だと記憶してくれる歳まで、自分は生きることができるのだろうか。
幼稚園や小学生になる姿を見ることはできるのだろうか。いや、それは多分無理だろう。
もう涙が止まらない。なんで、なんで?この子とはすべてがこれからだというのに。
私はどうなるの?もう全身に転移してすぐに死ぬの?痛くなったり苦しくなったりするの?
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
(いやあ、書いていて辛くなってきた、泣きそうになるわ。)
でも泣いてばかりはいられない。まずは○○医大病院に電話。紹介状がありすぐに診察を受けたい
を旨を話し、紹介先のベテラン女医先生の予約を明日入れてもらう。
まずは良かった。明日病院に行ける。あれこれ考えるヒマはなく明日診察を受け、これからの
ことがわかるはず。
次は人のアサイン。赤ちゃんの息子を見てくれるのは母しかいない。問題はダンナが明日休めないこと。
一大事なのだが、今日休んだので明日はスケジュール上どうしても無理。なので、
急遽、実弟と叔母に明日同行してもらうことにする。もう親戚巻き込んでのてんやわんや状態。
とにかく明日、すべては明日。それまでは何も考えるまい。
今日は家族に甘えて、子供の顔を見ながら早めに寝てしまおう。
不安と恐怖と動揺と、そして明日への戦闘モードと、もう頭も心もぐちゃぐちゃ。
でも頑張って授乳しながら寝た。
つづく・・・。
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妹さん、授乳中で、しかも検査も頻繁にうけていたとのこと、状況そっくりです。
抗がん剤の副作用は、結構個人差があるのですが、大切な妹さんの辛いご様子をそばで見るのは胸が痛みますよね。
ご家族の励ましと理解が何よりの支えです。
妹さんにとっても、ポチタマさんの存在がきっと心強いと信じています。なぜなら、私も姉か妹がいたら・・・と思いましたから。弟では・・・。
看護師さんの「前向きに・・・」の発言はあまり気にしないでください。前向きになれる時は自然になれますから、今は無理なさらないで。
妹さん、きっと子育てが治療の力になってくれる思いますよ。
ご一緒に歩いて行きましょう。
先日妹が乳がんⅢ-Cと判りました。
まだ子供が小さいので日頃から健康に人一倍気を使って、シコリが気になるからと今年は三回も検査をしていました。
ところが授乳中のためなのか発見が遅れて、別の病院で診てもらった時には上記の結果でした。
現在は抗がん剤の治療中ですが、見ている方が辛くなるほどです。
友人の看護婦からは「前向きに考えなきゃダメだよ」と言われていますが、一人になると毎日よくない事ばかり考えてしまいます。
アッピアさんのブログを拝見して、子供さんが小さい時に病気になられた事や当時の年齢が妹に近いので、頑張っていらっしゃる姿勢にとても励まされました。
ありがとうございます。
またブログ楽しみにしています。
でもがん闘病の方で、検診時のがん見逃など結構多いような気がします。
本当、人生不公平で理不尽です。
でも、人間はそこから這い上がる力を持っているんでしょうね。だからみんな頑張っていけるんだと思います。
でも子育てが力になってくれたのも事実だし、
幸い母が物理的にかなりサポートしてくれたので、大いに助かりました。
ピンチな時も助けを求めれば、誰か何とかしてくれるものです。
これからも辛いことはあるかと思いますが、その倍は楽しいことで埋めてやろうと思っています!
子どもがいくつだからとか、もう孫がいるから平気とか、ないと思います。
子育てと闘病が重なったのは、確かに物理的に体力的に大変でしたが、母のサポートなどもあり何とか乗り切れました。
それと子どもが力になってくれたのは事実です。
これから闘病、と肩に力を入れずに楽しむことを大いに考えて行きましょう!
その悔しさ・理不尽さをどこにぶつけていいのか、いったいどうすれば良かったのか、読んでるだけでも何とも言えない無念さ、怒りが湧いてきました。
それこそ毎年、二件位掛け持ちで検査したり、腫瘍マーカー検査も欠かさないとか...。
それでも、見つけられる保証はないですものね。現実問題、そこまで出来ないですし。
進行が早かったなんて言われても、納得いく訳ないですよ。妊娠中や授乳中って、それじゃなくても癌の事なんて、頭にないのが普通ですしね。
早期に見つけるって、どれだけ難しいことなのでしょう。
他人事ではないと、つくづく考えさせられました。
産まれたばかりのお子さんを育てるだけでも身を削る思いなのに、自分の体の心配を抱え、この時の辛さは尋常なことではなかったと、心中お察しします。
今までどれだけ頑張られてこられたかと思うと、それだけで涙ぐんでしまいます。
辛い経験ですね。
私は病気がわかった時、二人の子供は25歳と21歳で共に大学生で下宿中でした。
夫と二人暮らしの専業主婦でした。
迷惑をかけるのは夫だけでしたので気がラクでした。
自分の治療に専念できる恵まれた環境でも、辛く悲しいことでした。
小さいお子さんを抱えての闘病は大変だったと思います。
私はまだまだ初心者マークの患者ですので、先輩の背中を見て励まされています。