現代の絵を描く者に「どんな絵を描いているのか」尋ねれば、風景画、静物画などの「モチーフ」を描写しているか、あるいは「非現実的なテーマ」「観念的テーマ」を題材にして制作する。前者は最終的に「いかに描写した」が帰結であり、後者は時として誰にも完成は分からないし、もとより基準がないので、終わりはない。
最近の美術系大学の入試傾向から、この二つが試験官の視点であるところもあれば、端から後者の観念的とも言える表現性を評価の基準にするところ多くなっている。要は過去の傾向が「描写力」に傾いていて、表現力が弱い世代を作り出してきたと考えられるからであろう。具象作家と言えば「究極のリアリズム」と称して、本物そっくりに描くことと勘違いするレベルであるし、人類の歴史の中で何がリアリズムであったか考える人は少ないからであろう。それは決して難しい「哲学」ではない。先人たちの感性の豊かさに見ることが出来る具体的なものである。要するに見なくなった、考えなくなったと言えるだろう。
美術に対するイメージが歴史の中で大きく変わってきていることも影響して、美術が視覚表現という枠から外れて、言葉を用いて価値を補充するような傾向が常に存在するようになったのは、作家の置かれた環境による。今は個人で生活の糧として絵を描いて暮らすなど、資本主義、物質主義、拝金主義、名誉欲などを受け入れないと得られない。それが表現の目的にかなったものであるかどうか、作家が考えることであるが、作家としての倫理観や志が問われる。経済発展した国であれば、美術品は投機の対象になっているし、アフリカの民族美術品と言えるような、楽器や祭礼器など、すでに商品化されて欧米に出回っているし、オーストラリアのアボリジニの民族楽器から、アニミズムの象徴のようなオブジェも美術館に展示収蔵され、価値が付いている。そしてそれらはコピー商品として売られ、資本主義の流通に組み込まれている。
一方で、「非現実や観念」をモチーフにすると作り手は自分に対して甘くなる。視覚表現である意味は見る側に投げられ、分からない方が「おかしい」程度に扱ってしまう。「これが分からないか?!!」といって、言葉で説明を始めてしまう。美術館学芸員や画商はこうして分からないものに価値を授ける。
この項で何が言いたいかというと、現代の美術は本当に「美術表現の目的」があって作られているのか、それとも商品になっているのか、それらに接する人たちに問いたい。商品であることは、交換価値がなければならないが、たまたま作ったものが売れたというのと、売るために作ったというのでは、物の出来が違う。誠意もこもらない。素人はこの誠意のない作風、レベルが判断できるだけの目利きではない。美術館の学芸員でさえ目利きでない者は多いことだ。
巧みな技術について言えば、素人は作り手に騙されるのはある意味仕方がないとも言えるが、騙そうとして作られたものかどうかぐらい判断できる目は持ってほしい。わざとらしい表現、素直に生まれた表現、誰かが教えた表現とか・・・。
日馬富士の事件以後の春場所だ。張り手、かちあげを禁じられて白鳳は二敗した。立ち合いで自分が主導権を握られなくなったからか・・・・。もし学芸員が鑑賞者が分からないからといって、言葉によって視覚表現を説明することを禁じられたら困るだろうね。作家においても同様だ。甘えがあるね。二敗じゃ済まないよ。・・・と言っているうちに「休場」だとさ。土俵の上で死ねよ・・・そしたら記憶にのころだろうに。相撲をスポーツにするな!!神事たれ!!!理屈じゃねえんだ、相撲は!!・・・と結局、皆で解説しちゃってるね。
目で見てわからないものは、意図が伝わらないものは美術ではない。他人は手出し(解説)無用。だから私は描写表現に拘りたい。しかしあるものを在るがごときには描くのは愚だと再三述べてきた。ないものを在るがごときに出来て一人前の絵描「絵描き」だとおもう。しかし描けないものの方が多い。こうして言葉を使って描き表せない世界こそビジュアルな手法を使って表すだけの価値があるのだから、その手法を身に着けるために頑張るべきだ。具象絵画は写真的に「見えるままに描く」ことが究極(最後に残されたテーマ)ではなく、まだやるべきことはある。
現代に生きていいることは、運が良ければ、生きているうちに大金持ちになっているものも現れる。しかし絵を描く意味があるのかないのか自分に問わずに一生を終わるのは悲しいではないか。いつの間にか年金生活者になって、十分な収入がなく、しかも猫を食わしている。猫を処分しろという者もいるが、冗談じゃない・・・もし家の子が海に落ちたら、泳げないけど飛び込んで助ける・・・・それほど、彼らは家族として私と共にあるのだから、貧乏で食い物に困るほどなっても、私の食費を削れば今のところ、彼らを空腹に放置しなくて済んでいる。
正月には和牛ステーキを食べた、おいしくなかった。牛脂臭い。値引きされたウナギも食べた。本物の味ではなかったが、まあいいか。まだ本物の貧乏ではない。お金が自由に使えないだけだ。今年は一月から良いことがあった。防災無線のスピーカーが近くにあって、80デシベルを超えて正午に「浜田市民の歌」、夕刻5時にドボルザークの「家路」をかける。防災と時報とを一緒にしないで欲しいというのがこちらの訴えで、訴訟も辞さないと市役所に言ってきた。私はきっと「モンスター市民」だろう。市役所の担当者はこれまで何度か対応したが、ほとんどいい加減だったが、今回は許さないと厳しい態度で接した。やっと対応がされた。音楽そのものを無くしたりしないで、解決するためにはスピーカーの方向をずらすと言ってきた。そして実現した。どえらい違いが出てきた。家の中に居れば決して不快とは言えないまでになった。文句は言うものである!!しかしこの町の市民は市役所の役人に、まだ洗脳されているのには違いない。
しかし未だに山口市に住みたいのだ。新山口駅(新幹線)の近くに住んで、宇部空港も近いところなら、東京にも海外にも近くなったと思える。猫シッターを頼めば少し留守をしても良いだろう。またオランダ、ベルギーを訪ねて、フランドル絵画の影響を受けたいな。彼らの絵具の処理の仕方が魅力的だ。観る者の感性に素直に響くだろう。ここ浜田で死にたくないな。冬は西風が暴風のように荒れて、寝るときも海鳴りが、地鳴りが恐ろしい。宝くじでもあたらないかな?でも買わないと当たらないね・・・。
またつまらないことを書いてしまった。