評論家、西部邁(にしべすすむ)氏が1月21日に入水自殺された。「自裁死」というのだそうだ。
氏は若き東大生時代から学生運動に関わられて、政治や社会についての批評を数多く著作され、多かれ少なかれ時代に爪痕を残された。近年、「自裁死がいい」と話されていたそうだが、彼が絶望してきた対米追従や大衆社会状況は変わらず、「絶望に立つ希望」を唱えていた。
2000年には「私の死亡記事」(文芸春秋編)にも精神的な衰えが見通されたら自殺すると予期した文章を寄せていたそうだ。自らの体調や年齢を考え、長年検討してきた死を選んだのだと思う。鈴木英生(毎日新聞)
そこで、ダイヤモンド・オンライン)(17年10月3日)の記事が再掲載され、「安倍晋三は真の保守ではない」という話の中で、西部氏が貫いた「保守」について述べてみたい。私も思うに、「安倍晋三は祖父岸信介、叔父佐藤栄作から学んだことは米国ベッタリの属州的な従属意識で、トランプに対しても危機をあおって憲法改正しようとする姑息な政治しかしていない」と、彼は真の保守ではないと述べ、「保守は現状を維持することではない」と言っている。
本来の保守とは、その国のトラディション(伝統)を守ることで、近代保守思想の始祖とされるルマンド・バーグは「保守するため改革(reform)せよ」と説いて、現状が伝統から逸脱していれば、改革を断行するのが保守であると述べて、「伝統」とはその国が残した慣習ではなく、その内包する平衡感覚を意味すると言っている。(難しくなったが・・・・)
19世紀末のフランスではバルザックが、現代に息を止めてやりたいと思うことがあれば、古き良き時代を見つめ直し、取り戻そうとすることは自然主義である・・・と述べているが同じ意味と思える。
また西部氏はrevolutionの真意は「革命」と訳されているが「再び(re)] と「巡りくる(volute)が組み合わされる言葉で「古き良き知恵を再び巡らせて現代に活用する」というのが本来の意味だと。愚かなことに現代人は「未だかつてない新しいこと」をやるのがレボリューションだと解釈してしまった・・・と。他にreform(改革)も然りで「本来の形式を取り戻すというのが真意である・・・と述べている。
保守に対するリベラル(革新)について述べると、左翼が揚げる「革新主義(progressivism)は変化を起こせば何か良きものが生まれるとの考えに基づいているが・・・・「変化によって得るものは不確実だが、失うものは確実である」(英)政治哲学者マイケル・オークショットの言葉を引用し「変化が確実によくなるとは限らない」と述べている。
つまりは先に述べた「平衡感覚」がやはり必要だということだろう。
私はこれまでブログを介して同じようなことを言ってきた。
伝統を顧みず「新しいものがある」と信じ切った者たちによって観念アートは生まれてきた。当初は硬直化した表現様式に対する批判であるものが正当性を主張するために「新しいもの」信仰を始めたのだ。全く新しいものであるなら美術と混同せずにガンばれば良いものを、美術の流れに甘えて美術館に展示したがるなどして「連続する次世代」として社会に存在を主張してきた。しかし彼らには伝統も継承もない方法論ばかりであって、美術ではないのだから、これに対し私は自分の立ち位置を理解し、誠実に目的意識に従うべきだと言ってきた。
そして現代アート(観念アート)と現代美術を混同させないようにすべきだと。つまり視覚芸術と観念アートを一緒にすると、これまで先人が積み上げた賜物を軽視し、全く理解できなくしてしまうと述べてきた。私にとって観念アートはどうでも良くて、私の趣味ではないので好きにやってくれればよいのであるが、美術評論家や美術史家でさえ、中には描写表現をただ「物を描きたかった」と解釈する者や全く逆に表現されたものから「精神性による意識」をより強調して考えるものまで現れて、作り手の感性が無視される状況に至っていると思っている。描写においても、写真のように対象そっくりに写す行為は作り手の側から感性を無視した行為だ。
評論家は言葉で創り手を扇動してきた。「新しいもの」があるように錯誤させて、抽象表現にイメージがあるような誤解を与え、解説する。「変化によって得るものは不確実で、失うものは確実である」ことを見落としてきた。つまり美術表現は失ってきたものが大きくて、もう取り返しがつかないほどである。再び取り戻すことはもう出来ないのである。
西部氏は突然疲れて、これ以上何かを論じる気力が失せられたのであろう。トランプや安倍、習近平、プーチンと金正恩までくたびれるような状況を作り出す。西部氏は足元の自分の生き方に「平衡感覚」による線を引かれたのであろう。
西部氏の決別に心から哀悼の意を捧げたい