河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

構想画

2018-08-23 22:42:31 | 絵画

。過去のブログ「構想画の始まり」を参照していただきたい。

構想画が」「唯一の具象絵画の生き残り」であるように思う。制作理念である「主題性」へのこだわりがない。近代絵画の終わりに生じた異端である「観念的絵画」(観念アートではない)に洗礼を受けた現代作家にとって、制作欲のはけ口に選んだ絵画手法は「構想の自由」であった。

私が絵を描き始めたばかりの時に出合った当時、山口大学教育学部助教授であった山本文彦先生の大学の研究室で制作されていた「構想画」は、何ともビギナーであった私に衝撃的な主題であった。1960年~70年は学生運動真っ盛りで、当時から自民党が民主主義も無視した政治でアメリカ追随の安全保障で、右も左も引っ掻き回した日本の状況が、度々絵画の制作主題にも影響を与えた時代であった。

先生の作風にも暗い権力的な力が現れて、当時左寄りであった高校生であった私には胸に熱いものを感じていた。(先生は右でも左でもなかった)先生の研究室を訪ねると常に絵筆を持った状態で、いろんなことを教示してくださる姿に、そのまま引き込まれて、今日なおその制作態度が影響していることに感謝している。

1987年8月のサイン。真夏の「太平洋高気圧」が主題だ。子供の頃の夏を思い出して描いた。油彩F4号(24x33cm) しかし、何一つ参考となる実際はなく、思い付きであり、自然の法則を無視することが制作の理念だ。 自家製のカンヴァスで白の地塗りだが、細かな亀裂が入ってしまった。地塗りの中の膠の具合が悪かったのだろう。夏場には膠が腐りやすく、亀裂の原因となる。

 

年紀はないが、おそらく87年だろう。この頃盛んに構想に明け暮れた。経験上の記憶から発想された世界の、参考となる写真や実際があるわけではなく、それらしく描いて見せることが「楽しさ」だった。油彩F4号カンヴァス(24x33cm)

1987年板に油彩(16x16cm)この頃から「生と死」に関する主題が増える。

私の構想画には画面の大きさという問題点があって、小さくても60x80cmくらいの画面に描くべきだろうが、モチーフが小さく描かれて、時間がかかるようになるだけとも・・・・思える。

次の作品はケント紙にペンと黒インクで描かれた南洋の森に死ぬことをイメージした。260x365mm

2007年「森に死す」は一度60x80cmの板に描かれ始めて、頓挫。東京から島根に引っ越してきて、今となっては行方不明になっている。またその内、描き直すだろう。

 

2008年「デスティネーション」パネル仕立てのkent紙にペンとインク(260x365mm)このままの状態で半世紀も置けば、紙は黄ばんで見えが悪くなる。パネルから外して、中性紙を用いて額装するのが良い。

 


写生画

2018-08-23 21:34:29 | 絵画

写生は「在るものを在るがごときに描く」ことだ。絵を描くことを始めた時には、この写生から入る。うまく描けるように上達する方法は石膏デッサンが最も手ごろな方法だろう。だからモチーフの石膏像は優れた彫刻科による作品であって、像を「それらしく描き写すこと」だから、描いているうちに何とか上手くなるだろう。しかし石膏像が上手く描き写せたところで、人物画がうまく描けるようにはならないので、それはそれで修練が必要だ。その修練は、何となくやっていれば上手くなりはしない。どうすべきか目標を立てて、先人のデッサンを見習うのが一番だろう。

その内、デッサンは写生から始まって、より高度な次元でモチーフの形や質に魅力を感じて描く方法が求められることに気が付く。写生は決して写真的に描くことではないことは、これまでにも何度も述べてきたが、モチーフに対して洞察と感性で描写を行うのであって、リアリティはモチーフの現象に近づくことではなく、「存在感」に近づくことである。

今回、取りあげた作品は静物画であるが、私にとって気まぐれに近い表現であることに違いない。と言うのも、静物画は練習(習作)であって、モチーフの質感や魅力を描くことで、自分の好きな構想画に生かせると思うからだ。

写生画に取り組むようになったきっかけは東京造形大学時代の先輩、青木敏郎氏に感化されてのことで、彼が卒業後ベルギーに旅発った時には、中途退学して、彼の背中を追いかけたほど、彼の絵画の学び方に習っていたほどである。おかげでブリュッセル王立美術アカデミーが授業料を免除していた時代に間に合ったことはラッキーであった。二年後からいきなり外国人は年間2万フラン(当時14万円)となり、免除の嘆願書を書いたのを憶えている。(一年だけ免除となったが)

青木氏と競争するように人体デッサンを重ねて、年間千枚を達成させるほどであった。おかげで当時かなり人体描写は上達したが、青木氏は当時から「金持ち相手に絵を売る」と現実的な生活設計で将来像を描いていたので、自分なりの方向性とはたもとを分かつことになった。私がドイツへ留学先を変えて、「絵画修復保存」を学んで生活設計としていようとし始めてニュールンベルグのゲルマン民族博物館に学ぶようになってから、人体デッサンが上達しなくなったのだ残念であった。8年に及んだ留学から帰国した当時、すでに青木氏は売れっ子の新進気鋭の静物画家になっていた。次の作品は私の帰国後随分後であるが、青木氏に対抗して、この程度は描けると試した一点である。87年には修復業の合間に「構想画」を描き始めていたので、筆安めであっただろう。

1990年に3か月ばかりかけて描いた。瓶の中のナツメの焼酎付けが上手く描けなかったが、どれほど苦労したかは覚えていない。反面、意外とうまくいったのはガラスの器で、何となく光るとそれらしく見えるのだ。F15カンヴァス(65x53cm)こうした作品に見慣れていない人は「まるで写真の様」と言われるが、作者にとって決して「誉め言葉」ではない。描く側には、目に映る感性の独自性が求められているのです。

実際の画面はもっと黄色っぽく、ぼんやりとしているのが売りだ。写真の撮り方は一向に上手くならないから、現物を見る機会があれば幸いである。

撮影が悪く左下に照明の反射が入る。私が来ていた白いシャツの反射も出ている。色彩の再現性も悪く、鑑賞に堪えないが・・・・。

 

次の作品はまた時間が経っているが1995年に文部省在外研究の資格をもらって、ロンドン大学コートルド研究所で客員研究員として滞在している時に、描いたもの。46x36cm カンヴァス地のカードボードを板にマルフラージュ(貼り付けること)。

丁度、スーパーで大きな柘榴(ざくろ)を売っていたので、描いてみた。また最近、友人の庭に出来た枝付きのザクロをたくさんもらったので、いくつか描いてみたい。こうしてみると構想画が上手くいっていない時、つまりスランプ状態の時、気休めに写生画を描くのは悪くないかもしれない。

今日はこんなところで、よかろうかい!!チェストー!!