河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

要介護1の認定

2018-11-08 18:22:58 | 絵画

ベットにくぎ付け、安静第一が回復の道だと知らされて、いろいろ覚悟した。

救急車に乗った一日の出来事は、この先、決して忘れないだろう。N先生には一家をあげて世話になることになった。

Y病院から家に戻って、再びベットに横たわって、少し安心したが、そう言えば、24時間何も食べていなかった。水も飲んでいなかった。N先生がお茶とお結びを買ってきてくださった。(3週間はお茶や弁当を持ってきてもらう生活になってしまった。)トイレにも行っていなかったので、そこで排便と排尿が気になった。しかし心配は真逆の方向に向かって、痛みをこらえながら、床を這ってトイレに行って、痛くて座れなかったので、中腰で踏ん張ったのだが、ガスが「すー・・・」と出た切りで、悲しかった。要するに宿便に変わり、大腸の中に溜まっていくのだった。小水はバケツにとることにした。本当に申し訳なかったが愛弟子のKちゃんに急遽「バケツを持ってきて」と頼んだ。結局3週間は便は出なかった。激痛の体調や薬がそうさせたのだろうか?

こんな調子で、猫のエサやりもKちゃんに頼むことになり、毎日休みなく夕方には猫に缶詰めを開けて、十数匹が夕方の食事に集まってくるのに名前まで覚えて、猫たちに好かれている。反対に目の前のベットに寝ている私には猫たちは愛想が悪くなってきた。しかしKちゃんの本分は受験生で、デッサンと油彩画を学んでもらうために来ているのに、一時間から猫のために時間を費やしていいて、申し訳なかった。

猫たちは自分たちがいつも居るソファーを荷物置き場にされたため、私の寝ているベットに集まってきたのだ。シングルベットに13匹マックス乗ってくる。大半が彼らの占有で、3分の1でもあれば良い方で、痛い私の足の上にもお構いなしだ。3日分の薬が切れたので、N先生の奥さんがY病院にもっと長期に薬を出してくれるように頼んでもらったが、また3日分しかでなかった。(診察してやるから、当人が来いということだ)腹が立つ病院だ。もう二度と行かないし、誰にも勧めない。田舎の病院は相手にならない。入院は不可能。ベットに空きがないほど、老人患者であふれる街なのだ。国立の医療センターは「死にかけているなら受け入れる」などと言っているから、医療の根幹にかかわる不作為だと思う。N先生にかけている負担はこれ以上続いてはいけない。

そこで対応を考えて、N先生がいろいろと調べて、市の福祉事務所の担当者に行き着いて、市の福祉行政の世話になることにした。10月10日に、市の担当者、福祉事業者、ケアマネージャ、ヘルパーさん派遣会社の担当と介護タクシーまで大勢が私のベットの周りに集まった。さすがに大半の猫たちは外に退避した。そして介護認定を受けるために内科の主治医の診察を受け、介護認定の審査を受ける事に成った。この時、鎖骨神経痛発症から4週間目であった。簡易トイレがベットの横に届いた。これは買取だそうだ。そのおかげで、翌日通じがあった。なんと三か月分ではないが、宿便の一部が出たと思う。これで気分が良くなって、嵐の後に朝日が昇ってきたような気分だった。

内科の先生はY病院の医師とは真反対で、事細かに説明してくれて、患者に安心を与えるインフォームドコンセントに徹して、安心させてくれた。しかし朝方医者に行くものではない。老人の患者であふれ、私は寒い廊下で車いすに乗ったまま一時間半またされた。老人たちは朝が早いのだ。診察後、介護認定は一か月かかるのだそうだ。先生の話では「介護認定1」になるそうだ。

しかし、介護認定が下りるまで、ベットにくぎ付けになる身分は避けたい。体を少しでも自主的に動かすことにした。まず立つことに危険なほど、立ち眩み(くらみ)があり、足が弱っていて、ふらつく。まずベットに寝たまま、足首を動かしてみる。10回動かして5分ぐらい休んで、また繰り返す。足のしびれは一歩出るのに要注意だった。アスリートでさえ2週間も寝ていたら、回復に何倍も時間がかかるそうだ。その後風呂に入って驚いた。足の筋肉がふにゃふにゃになっていて、太さも半分の大きさになった。ベットの上で寝る時間には猫たちが大入り満員で、私のしびれて痛い足の上にも乗ってくる。いた個所をかばって、寝返りを繰り返すのが健康な証拠だが、私の場合、お行儀が良いので塩蔵も良いし、腰痛の遠因となる圧迫が頻繁に起きている。だから寝ている間だけは自由に動けることが大事だ。ここまで病状が改善しないのは猫たちのせいだと思ってしまう。

ようやく立って歩こうとすると、地球の重力が感じられた。自分が重くて腰が砕けそうだった。そのまま座り込んでしまった。だが止めるわけにはいかない。生活はヘルパーさんの登場でいろいろ買い物してもらえたが、生活に関するものだけで、薬は売薬でもだめ、医者に行って処方箋をもらうのもだめとか、いろいろ制約があっても、弁当もN先生の奥さんにこれ以上迷惑を掛けたくなかったので、月水金のローテーションで買い物に弁当の数を調達してもらった。ああ、野菜の煮物は味が薄い場合、カビが生えやすいので気を付けなければいけない。いずれにせよ、ヘルパーさんの来訪は生活の基準を変えてくれた。

介護認定の基準については行政が案内パンフレットを出しているが、要介護のサービスは生活機能の維持、改善が必要な人のためで、1~5の基準がある。私の場合、ベットから起きられても歩けないというのが基準だが、確かに長く歩けないから買い物には行けない。車の運転も危うい。ハッキリ言って長く同じ姿勢が取れない。こうしてPCの前に座っているのも、時々休みながら書いている。

この先のリハビリにも問題があって、私はいつの間にか高血圧で175~185ぐらい高い方がある。標準は130ぐらいらしいから、立派な高血圧で下げる薬を飲むしかないが、簡単に下がらない。鍼灸の治療を受けたいが、150以下でないといけないらしい。

坐骨神経痛は完全に治らないのが普通らしいと聞いて、少し失望している。只病気と闘っている気分でいたくない。このさき、やはり絵を描いて自分を確認したい。すべての原因は、これまで運動不足を軽く見ていた自己責任は万病のもとと理解する。老化は仕方がないが、楽しく老化することを考えなくては。

回復してきたら、この記事の続きは書きます。




救急車に乗ったどオ・・・!!

2018-11-08 00:49:27 | 絵画

ブログが突然、更新されなくて・・・怠けているように思われたかもしれないけれど・・・。大変な身の上になって椅子の上に座ることも出来ませんでした。

10月8日(日)朝、左のお尻に激痛が走り、ベットから起き上がれなくなった。その前まで腰痛で苦しんで、つえをついてようやく歩いていいたのが、少し改善したと思えば、左側の腰からお尻にかけて新たな激痛で苦しみ始めた。昔から腰痛もちで、東京にいた頃、整形外科で「腰痛分離症」(5つある腰椎の一番下の5番目に亀裂があり、神経が飛び出す病気。日本人の500人に1人にある奇形、またアスリートの30~40%が持っている症状で、十代の若いころスポーツでなり易いとか。)だと診断され、椅子に座っている生活から運動不足で発症した。この腰椎分離症に伴ってなり易いのが、新たな神経痛だ。

起き上がることが出来ずに、ずっとベットの上で苦痛に耐えていたが、夕刻に愛弟子のKちゃんがやって来て、「ちょっとここにいるよ!!」と声をかけた。実は夏の豪雨災害で罹災した実家の減税申請をするために岩国に出かける予定であったのが・・・・二階から声をかけて、Kちゃんはけげんに思って二階の寝室に顔を出したら、苦痛な声を出す私を発見したが、取りあえず寝ているから「貴方は絵を描いていなさい」と言ったのだが、父親のN先生(我が家の隣が職場の水産高校の先生)が飛んで来た。即、「救急車を呼びましょう」と言われて、私もその気があったのだが、いつもの優柔不断で「ちょっと待ってみます」と答えた。少し治ってきたら照れ臭いと思ったのだが・・・。夜通し激痛は激しく耐えられないほどで、とうとう9日の朝9時、自ら119番へ電話した。

「火事ですか?救急ですか?」と消防。「独りで二階に寝て、動けなくなっている。階段は狭い。体重は80kg。」などを知らせて、間もなく遠くから、ピーポーピーポーが聞こえてきた。これで救われる。枕元にあったレジ袋に財布、免許証、鍵、スマホを入れて待った。

きたきた、6人の男性がどかどかと私の寝ている二階に上がって来た。この時私の寝ていたベットは天蓋ベット(屋根付きで、周囲に猫除けの防獣ネットが付いていた)に、救急隊員もびっくり。「なんじゃこりゃ」だったが、2人が手早くソフト担架を私の体の下に挿入してきた。私は「イタイ、痛い・・・イタ」激痛は頂点に達し、「アーアー、ウーウー・・」とうめく私にかまわず、階段から私を頭を上にして階下に降ろし始めた。もうどうでも良かった。苦痛から逃れられるプロセスに違いないと・・・自ら慰めた。玄関から外に出たとたんに、大粒の雨が降り始めて、みんなびしょ濡れになった。途中私には窓付きのビニールカバーがかけられたが、寒かった。救急車のところには、車輪の着いた担架がまっていたが、びしょ濡れだった。ソフト担架から移された時、背中に雨水がしみて冷たかったが、激痛とすべてを受け入れた。

救急車に乗せられるとき、N先生が既に来ておられ、心強かったが申し訳なく思った。この時からN先生には大変な迷惑をおかけすることになった。救急車になかでは直ぐに胸に3点、指にも電極が着けられ、心音を採取、血圧も測られた。寝させられた目の横の計器にに数値が出る。「これはひょっとして私の血圧ですか?」なんと数値は199を示していた。

救急車内では無線のやり取りで、行先を打診していた。「国立医療センターは拒否・・・00医院も、じゃY病院か?」「Y病院に行きます。良いですね?」。私に否定しようがない。そしてピーポーと大きな音とともに走り始めた。恐らく2~3分のことだろう。車の中に寝たままの外の景色は、全くどこにいるのか分からなかったが、国道9号線を走っていた。Y病院はさほど遠くは無かった。

Y病院に着いたら、すでにN先生が先回りして着いているのが見えた。院内に入ると病院の担架に移されたが、その担架には分厚いビニールが敷かれていて、血まみれの患者やお漏らしする患者に対応しているのか・・・・感じが悪かった。・・・で、移動する度に強い痛みを覚えた。看護師にどうしました?と聞かれて「腰が、お尻が痛い・・・」と答えたら、年老いた二人の男性(どう見ても二人とも80過ぎにしか見えない)の担当医師が現れたが、一人の胸の名札に「院長」の文字。この人は何もしない。もう一人が担当らしかったが、「どうした?」「腰痛の後、腰からお尻が痛むようになって、昔から腰椎分離症だと、東京の医者で言われていた」と私が答えると。そこですぐX線撮影。なぜか胸部X線撮影?痛いのに立たされて撮影。腰は三枚、ゴロンゴロンと台の上でも痛いだけ。終わったらまた元の車付き担架で診察室に移動、そして看護師が「痛み止めをあげるわ」と言って、いきなりパジャマの尻をめくって、肛門に座薬を差し込んだ。座薬の痛み止めが一番効くと聞いていたので、まあいいか・・・と。次は、その老いた担当医が私の足を針で突いている、・・・・イタイ、痛い。そうすると看護師が「足がしびれているかどうか確認しているのよ!」と言う。そして次は血液採取。「炎症が起きているか調べるから」と言ったが、後で何も説明がなかった。院内は寒かった。「あのう寒いのですが・・・」。看護師が足元に薄い布団をかけてくれた。「あのオシッコがしたい・・・」すると、看護師が尿瓶(しびん)を持ってきて、私のパンツを下すなり、股の間に尿瓶をいれ、そこに私の縮こまったおちんちんを引っ張っていれて「ハイ!」と。手際が良くて、何も言えない。結局、痛くて何も出ない。また診察台から別の担架に移されて待たされた。また新たな年老いた患者が載せられてイタイ、イタイと言っている。

で、その、老いた担当医が遠くで「坐骨神経痛」だと誰かに言っている。これが私の病名だ。定年後、楽しく絵を描いて暮らすなんて、とんでもない話になってきた。

ここで坐骨神経痛について解説すると、大腿部背面から足元(腓骨神経ひこつしんけい、脛骨神経けいこつしんけい)までの広い範囲、最大最長の末梢神経で、大腿部の元は坐骨、つまり座ったときにお尻が当たる骨盤の左右の出っ張りの骨辺りから始まる、太さは鉛筆の大きさからあると言われている。原因は椎間板ヘルニア、脊椎の腫瘍(がん)、腰部脊椎変形症、腰椎分離症などから坐骨神経が圧迫、刺激されるなどして起きると言われている。

で、私の場合、腰椎分離症の後、ここに冷え、圧迫などで血流が阻害され、炎症が起きると痛みが始まる、が、その痛みは経験した者にしか分からないだろう。くしゃみをしても、体を反らせてもイタイ!。足は痛みとしびれで歩行は不可能。結局寝たきりで、安静にしているしかない。

Y医院の話に戻ると。看護師がここにはベットの空きがないから、入院はできないから「家に帰れ」と言う。薬(痛み止め)を三日分出すから、「三日後にまた来い」と言う。「ええ!来るとき救急車で来たのに、歩けないし、また救急車を呼ぶのか?」と尋ねたら、その看護師は首を横に振った。担当医師から何の説明はなかった。血圧も測った、X線もとった、血液も採ったし、何か説明があると思ったが、インフォームドコンセント無しとは(くそ!!やぶいしゃめ!!)。要するに整形外科では「対症療法」しかなく、痛み止めしか出さない。この薬を処方して貰うには、やぶでも整形外科に行くほかない。

愛弟子のおとうさん、N先生が「仕方がないので帰る用意をしましょう」二階の寝室に戻るのは無理だろうから居間にベットを作りましょうか?」と・・・・もう、すべて甘えてお願いするほかなかった。「帰って用意をして、また迎えに来ますから」、N先生を小一時間担架の上でまった。痛み止めの座薬が効いてきたので、痛みは少し和らいでいたが。

N先生の迎えで、車に乗り込むとき、やはり痛かった。N先生の支えなしに車に乗れなかった。家について、車から玄関までのアプローチが長かった。20メートルほど、先生に支えられ歩いた。居間には二階の客間に置いてあったベットが置かれ、布団まで敷かれていたが、何と猫が5~6匹載っていたが、そこに倒れ込むしかなかった。痛みを増幅させないためには「絶対安静」だと言われ、ベットの上で大人しくしているしかなかった。

こうしてベットにくぎ付けの生活で、N先生家族に全面的に世話になる日々が始まった。

以下次号につづく・・・なんてね。

誰もが、一生に一度は乗ることになるかもしれない救急車!! 乗り心地は「良い訳ないよなあ・・・」