河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

名画は迷画でしょうか?

2021-11-07 09:36:15 | 絵画

前にも話したと思うが「近現代美術は文学的な批評で持てている」・・・と。

美術作品は視覚的表現で出来上がっていて、決して言葉による観念的意味合いで鑑賞者に理解を求めていないと考えるべきだが、多勢に無勢、いくら私がまずは何も考えずに感じ取るところから始めるべきだと言っても、美術館の展示でもまず「解説文」を読む人が多く、原物を見る時間より解説文を読む時間の方が多いのは、展示室で観客の流れを見ていると確信させられる。現物を見に来たのではないのか?

あるとき東京芸大の美術館の館長が「展覧会を見に来るまえに、予備知識をつけて来れば、もっと面白くなる」と発言したことがあって、私は呆れた。彼は実技出身の絵を描く方の立場であった者であり、作品の表現性を感じるより、頭で考える方を勧めたのだ。

こうした傾向は世紀末に登場したフランス美術の行き詰まりを象徴するボードレールやオスカー・ワイルドのような文学者が美術批評に「自分の詩の作品を書くように・・・すべき」と、原物に対して「害悪ともなる批評」を勧めたのである。これに多くの近現代批評家は乗って、「意味不明な批評」を書き始めたのである。この「意味不明」は次の世代の作家たちに「制作の完成度に対する甘え」や「表現の遊び」を与えた。

美大や美術アカデミーでも教授たちは生徒に「新しい表現、新しい絵画を目指せ」と激励した。その意図するところは「芸術というものは新しいものを求めている」ということであろうが・・・・私は聖書には「陽の下に新しきはなし」と書かれていると抵抗した。要するに「桂馬の高跳び歩の餌食」と・・・能力が高くない者が無理をして自分を台無しにする・・・と考えた。

しかし多くの作家は「新しきもの」というのを「観念アート」として、コンセプトに従った表現を行うことで「発明」を「新しきもの」として考えてしまった。それは鑑賞する側にとって「感じることも考えることも」非常に難解な問題となった。なにしろ「他人の心は悪魔にも分からない」と昔から言われてきたいことをひっくり返したのであるから。

「何が表現されているのか良く分からない」と言われれば、作者は「言葉で説明」して見せる。説明されても分からない者は「自分は頭が悪いのだろうか」と悩む人も出て来る。それほど「芸術」という名は孤高の世界のように思われているから、見る側は自分を責めてしまう。

実際は作る側は楽しく遊んで、何も考えずに小学校、中学校レベルの図画工作を延長させた「物作り」をしているだけなのに・・・。人との会話が分からない時は相手に意味する所を尋ねればよいが、作った当人も良く分からない「遊び」を説明できなくて、「意味ありげに」祭り上げるのは当人以上に「意味が分っていない評論家や学芸員」の人たちなのだ。なぜなら鑑賞者が「作品解説」を望むからである。

NHK教育の「知恵泉」という番組で日本古来の刀について、豊臣秀吉の刀狩りの頃から江戸時代にかけて「刀にはプレミアムがついて重宝された」という話をしていて、つまり「これはだれだれが愛用した刀」とか「新選組の近藤勇が愛用していた刀」とか「昔から日本人は物語が好きだから」という解説があった。うむ・・・昔からそうだと言えるなあ・・・。

モノの値打ちには見た目で分からない何かを付けないと気が済まないのが人間の生態なのか?刀が刀である以外の話の方に気を取られて「原物」から離れることに逃げるのは「原物」をよく理解しようとせず、目利きの感性まで経験として積み上げる機会を失うことである。もしプロであるならそれをしていはいけない。

だから西洋美術館の学芸員も目が悪くて工房作(弟子の作品)を作家当人の作として高額

な費用で購入してしまうのだ。

ごめん!!関係のない画像が入ってしまった。自分でも理解できません。以前にも同じミスがありました。消し方が分かりません。