ネットの記事で、アメリカのある大学で教授が学生に試験して、自分がどれほど点数が取れたか自己評価するアンケートをとった。その結果、点数が低かった者ほど自己評価を高い点数を与えていて、点数が高かった者は実際より低い点数の評価を与えていた。このことから教授は「馬鹿ほど自分が馬鹿であることに気が付かない」という結論に至った。
こういうテストをこの国でやると父兄や周辺からクレームが付きそうだが、さすがアメリカの教授は巷の批判など恐れず論理的合理性を導き出した。
自分がどれほどのものか分かっている者は「点数が低い」ときは判る、分からない者は何故点数が低いのか分からないから「馬鹿である」ということだろう。
しかしこの国で多くの者は社会生活を送るうえで、自分に対する評価を実際より高く付けているように思う。そこには大した理由があるわけではなく、心情的にそうなるのである。国民性として理詰めで結果を求めないし、何となく評価は良い方であると思うのである。
欧米では個人の自律は不可欠で、言動には自己責任が絶えず伴うので、中途半端に放って置けないのである。そういう意味でリアリストになる。
知識があるものが賢いのではない。知性つまり考えて結果を導き出せるものがインテリだと理解している。だから知識がなくても「感じること」で災害を避ける能力はある。しかし東北大震災で起きた津波から逃げるのにバイアス(偏った見方、考え方)がかかって逃げなかった人たちがかなり居たといわれている。知性が働かず知識にまける判断もある。
この偏りは中途半端な考え方からくる。あるいは自分に都合の良い結果を引き出して、それ以上追求しないということだろう。もしその者が絵を描いていたら、観る者に作品に魅力を感じさせられないものを作り続けるだろう。
だが「追求」という言葉に騙されてもいけない。「追求しているつもり」という偏りもある。
要するにモノを作り出す者には「知性と感性」が求められ、どちらかというと「感性」に比重が必要だ。だがこれは意識的にすることではなく、無意識にそうなるための「意識の蓄積」が必要だ。しかし多くの現代アーティストは「知性で作品を作る」ものだと思い込んでいる。コンセプシャルアートと呼ばれる範疇だ。それはもはや視覚表現を手段とする美術ではないのだが、「アート」と呼ばれる言葉の意味を責任をもって明確に宣言しないで放置している。
私は絵を描く事に於いて凡人であるが、時々無意識に絵を描いていることがある。その時の作品はまるで日頃思っている自分の世界ではないような結果が得られている。ひょっとして、その時「凡人は自分が凡人であることに気が付かない」かも。