河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

何故、日本人はウサギ小屋に住むのか?

2024-05-14 19:34:07 | 絵画

自分のアトリエを建てるのに気が付いたことがある。

自分で作ったプロットの建築図が在来工法を得意とする大工の手で小さな家、小さなアトリエにされた。基礎を見て「これは小さい、小さい!!」と言ったら「大きい、大きい」と言い返した建築会社の営業に大工。彼らは注文主の希望を全く考えずに、「世間ではこれおを大きいと言う」と自分たちの基準や常識でものを言う。こういうところに、今の日本社会が相手のことを考えずに突き進むシステムで成り立っていることを証明している。

そこに基準や常識があるから良いではないかと・・・思っている。気が付いてからでは遅い。貴方たちは何かが起きる前に先入観を持つべきだ。自分の時は大丈夫だとバイアスを働かせてはいけない。注文主つまり「客」の言うことを聞いていたら「めんどう」なのだ。

日本の家屋は尺寸で出来ている。「さぶろく」をご存知か?畳一枚の寸法で、3尺と6尺(1尺は30.3cm)だが、畳の大きさにも京間畳、江戸間畳とあって、江戸間は京間より少し小さく2尺8寸と5尺8寸とする。

そこで、部屋の大きさが4畳半、6畳と割り振られて、寝室がその程度であれば上等であった文化がまだ続いている。6畳に布団を2枚敷いたら、もう何もできない。ベッド2つであるなら刑務所並みである。1970年以降であれば、国民の食糧事情も良くなって、日本人の平均身長は大きく伸びたが、在来工法の部屋の大きさは変わらなかった。畳の部屋が少なくなって板の間に代わっても尺寸で計算されている。

まえのブログの記事に「元号制」の無駄を書いたが、西暦に一本化することで、どれほど簡単になるか分からないのと同じ。尺寸をメートルに直せば廊下も階段も少しは体に合った「寸法」と変わっていくだろうが・・・この「寸法」という言葉も古語にすべきだ。貴方はスコップやツルハシを使ったことがるだろうか?柄が短くて腰を曲げないと使えない道具になっている。

要するに受け継がれる尺寸文化が不快であると思わず、そういうもんだと受け入れる日本人が多勢に無勢であるがため改善はしないだろう。

今の浜田の家の2階で「坐骨神経痛」を患って救急車を呼んだ時「狭い階段87cm幅だから」と申し訳なく伝えたが、今回あれほど伝えても95cmにしましたと大工が言う。たった8cm幅の拡張が何になるのか??

住む人間、そこで生きる人間が将来どんな生き方をするのか、将来が見えないほど理解が出来なくなっているのだ。

ウサギ小屋が減る訳は無い!!!!!


年を取ると分かるのか?

2024-05-14 09:36:39 | 絵画

ロシアでは、プーチンを支持する者は皆年寄りばかりだそうだ。自分も年寄りになってから感じるところが多くなって、これは同じ現象なのかと・・・ふと疑問がわく。

自分も年を取ってから「不満」が多くなって、これが当たり前なのか「昔はよかった・・・」とかいう者の年を考えてみる。プーチンを支持する「大ロシアの連邦時代」が良かったと思う者達は、悲しいことに生活物資が不足し、民主主義のかけらもなかった時代から精神性が解放されていないようだが。私がモスクワでアエロフロート機を乗り換えるために一泊したモスクワの町の店には物が無くショウウインドウが空っぽであった。再びチャイコフスキーの音楽を録音したロウ管レコードの修復を頼まれてモスクワを訪ねた1980年代は少しは物資が満たされてきたようであったが、通訳をしてくれた大学教授のサラリーではマクドナルドで食事をするには高過ぎると聞いた。郊外のチャイコフスキー博物館に行く路上に積み上げられた「すいか」は一つ700円で、これも金持ちの食べるものだと言われて驚いたものだ。宿泊したホテルは外国人専用の施設で、そのスイカもデザートとして盛られていた食事も格別だったらしい。その時まだロシアは解放されていなかった。

だからどこの国でも「年寄り」は自分の経験から人生を肯定する以外に、もっと幸福な世界がある事を感じられないのだ。そして自分の価値観以外を拒否するようになる。

今の私も「昔はよかった」とは私は決して思わないが・・・そういう比較の問題ではなくて・・・人間社会の作る悪事、嘘、出鱈目とかが強く感じられて・・・悲しいを通り越して腹が立つ今日この頃。

貴方は「昭和は良かった」とか思わないでほしい。あの頃から、この国には「民主主義もなかった」のだから。政権を取り続けた自民党が「民主主義とは何か?」と問うたことがあっただろうか!!

安倍晋三が銃殺されて明るみ出たことは、大変大事な事だった。母方の祖父である岸信介の思想を受け継ぎ「右派」に忠心した。父の阿部慎太郎側の祖父は戦時中は「反戦派」であったから、A級戦犯であった岸信介とは真逆であったが、岸信介は朝鮮戦争を計画していたGHQのマッカーサーの反共主義に賛同して権力中枢に残って戦後の日本を指導した。あまりのGHQ追随に怒った若者に壇上で刺されるなどしたが・・・・。自宅の隣に統一教会の事務局を置かせるなど、晋三まで癒着した原点は祖父にあった。

マッカーサーは反共政策の一環として「農地法」を制定させ「農地解放政策」で小作農を無くした。(私も個人的に農地を購入しようとして、大変いい加減な法律で、ある意味、逆に農民を農業に縛り付けて農地を簡単に売却できないようにした。農協は自民党が作った団体である。)自民党が「米価」を政策に利用し、農民票を堅持するようにしたが・・・・。時代は変わり米作生産性が向上し、コメが余るようになると「減反政策」を作って農家に補助金を出すようになり、「現金」に味を占めた農家は農業離れをして、より簡単に現金が手に入る仕事に向かうようになる。その時には「農民票」は期待できなくなり、農業政策は自民党から放置されるようになった。食糧安保という言葉はもはや飾りだけになった。

こうした事実が明るみになったのは,安倍を襲った山上氏のお蔭である。岸の時代からの統一教会との癒着、政治資金の隠ぺいなど、国会で嘘ばかり118回もついた安倍の時代はまだ終わらない。彼は閣議決定で「公文書の元号制」を決めるなど、気分は「美しい日本」なのだろう。この中途半端で無駄ばかりさせるために「閣議決定」を利用するなど「内閣府」のやるべきことではない。こういう無駄も黙って従う国民性が、この国の過去30年間の「生産性のない時代」を作ったのだ。

私事であるが、安倍晋三は私の母校の山口高校の同窓会にやって来て「自分は長州人だ・・・」と・・・彼は新宿生まれで、東京育ちで、どうして長州人だと言うのか?本物の長州人の前で平気でいられるとは、我が心の故郷を平気で踏みにじる「美しい日本」人なのだ。

私は青春時代を9年近くベルギーとドイツで過ごして異文化を学んだ。それまで日本の「集団」で決まる価値観しか知らなかったが、個人主義に出会って「唯我独尊」を知った。そして自分の生き方、考え方を大事にするようになって、帰国後「集団になりたがる日本人」とは上手くいかなくなった・・・がトラブルが多くても仕方なく、これで良かったと思う。人の考え方との違いは在って当たり前。

年を取ると、どういう訳か若い人たちと「感性」が合わなくなることも多く、年寄り同士で無言で過ごせる時間が愛おしい。

でもゲートボールとか老人ホームで過ごすのは、ちょっと無理だわ。

絵を描きながら、絵の中で「息をする」ことが自分に合っている。