平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 
鹿ヶ谷事件発覚後、この事件に加担した平判官康頼は
丹波少将成経・俊寛僧都とともに鬼界ヶ島へ流され、この
島から
康頼が流した千本の卒塔婆のうち
1本が厳島神社の卒塔婆石に流れ着き
これが赦免のきっかけとなりました。


厳島神社参拝入口から東廻廊を進み、朝座屋(あさざや)で
右折すると左側に鏡池があります。


満潮時にはここまで海水が入ってくるので、池の中の卒塔婆石は水面下です。


潮が引くと卒塔婆石が現れます。
池の背後には、厳島神社で一番古い康頼燈籠があります。
この燈籠は赦されて帰洛後、康頼が奉納したと伝えられています

三人が流された島の住人は、都の言葉を理解できないため、
意思の疎通ができず、農業が難しい土地で漁や狩をして暮らしていました。
熊野信仰に篤い康頼は島の中に熊野の地形によく似た所を見つけ、
熊野三所権現を勧請し、成経(なりつね)とともに
毎日自分たちの帰京を熱心に祈りましたが、

俊寛は熊野権現を信じることもなくこれに加わりませんでした。
成経の舅平教盛(清盛の弟)が所領の肥前国嘉瀬庄
(かせのしょう・現、佐賀市嘉瀬町)から衣食を送ってくれたので、
三人は何とか生き延びていましたが、
抑えがたい望郷の念に
康頼は千本の卒堵婆を作っては
年月日、名前、自分の心境を二首の和歌にして

♪薩摩潟沖の小島に我ありと 親には告げよ八重の潮風
(薩摩の沖の小島に私がいると母親に知らせておくれ。
八重の潮風よ)

♪思ひやれしばしと思ふ旅だにも なほ故郷は恋しきものを
(ほんのちょっとの旅に出ても故郷は恋しいものであるのに、
こうして島流しにされていつ帰れるか分からない私の気持ちを
思いやって下さい。)と書きつけ海に流しました。

やがてそのうちの1本が平家の崇拝する安芸国厳島の
社殿に流れ着き、
康頼ゆかりの僧がこれを偶然に見つけました。
卒堵婆は都に運ばれて紫野(京都市北区大徳寺辺)に暮らす
康頼の家族に渡り、後白河法皇の目に触れることとなりました。

「ああ!この者どもはまだ生き長らえておったのか。」と
想像だにできない
遠い島に暮らす近臣達の無念さを思って涙を流し、
卒堵婆は法皇から重盛に送られ、重盛が父清盛に見せると、
さすがに清盛も哀れに思いました。

はるか京の北、紫野に届いた1本の卒堵婆の話はたちまち都中の
噂となり、卒塔婆に記された和歌は鬼ヶ島流人の歌として
誰もが口ずさむようになったという。


折しも高倉天皇の中宮徳子(清盛の娘)が懐妊しましたが、
容体が思わしくありません。
陰陽師に占わせると、さまざまな
死霊や生霊が取りついて中宮を苦しめているとのことです。
そこで清盛は鬼界ヶ島の流人を呼び戻すことにしました。
流罪から一年後、都からの使者が鬼界ヶ島に着いたといいます。
しかし赦免状には
俊寛の名前がなく、
俊寛は1人島に取り残されました。


康頼には後白河法皇が丹波少将成経には舅の平教盛がいましたが、

俊寛には赦免に奔走してくれる有力な人がいなかったためとも
清盛の取り立てで出世した身、その恩を忘れ密議の場所を
提供したため
俊寛の裏切りだけは許さなかったともいいます。
また赦免状が下された時には、
すでに俊寛は亡くなっていたともいわれています。

ちなみに康頼らが流された鬼界ヶ島は、
読み本系諸本では「硫黄島」と記してあり、
この鬼界ヶ島は鹿児島県南方沖合にある
硫黄島をさすといわれています。
平康頼出家の地(光市普賢寺)  
 『参考資料』
「伊都岐島」 厳島神社社務所 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店
 
「平家物語を知る事典」 日下力 「日本古典文学大辞典」第4巻 岩波書店
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社  「日本奇談逸話伝説大事典」勉誠堂新編
日本古典文学全集「神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集」小学館



 
 

 

 

 

 



 

 


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