平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




京都府亀岡市立つつじヶ丘小学校に隣接している丘陵上には、
古くから頼政塚とよばれる塚があります。

この塚は、宇治川合戦で自刃した頼政の亡骸を家来の
猪早太(いのはやた)が持ち帰り、葬ったと伝えられています。


国道9号線「頼政塚」の交差点からつつじヶ丘小学校を目ざします。

このバス停からつつじヶ丘小学校横の丘を上ると頼政塚があります。

平成27年6月13日、再度頼政塚を訪れると、以前塚の周辺を覆っていた
鬱蒼とした藪は取り払われ、
整備されていました。

石段を上ると正面に大地主大神が祀られています。

頼政塚 (現地説明板)
源頼政は、兵庫県川西市周辺に広がる摂津多田庄を本拠とする
源満仲の長男で、大江の鬼退治で知られる源頼光の子孫です。頼政もまた
弓の名手として知られ、禁裏に夜な夜な現れる鵺に悩まされた
近衛天皇の命により、弓矢で見事退治しました。
その恩賞として丹波に領地を賜りますが、弓矢の功績で得たことから、
「矢代庄((矢田庄))」と呼ばれました。 
世は平家一門の専横の時代、
頼政は、治承四年(1180)以仁王の令旨をもって
平家打倒の兵を挙げます。この時、田野町の神蔵寺の僧兵も呼応し馳せ参じましたが、
その利無く宇治川の合戦で自刃しました。その亡骸は、郎党の猪早太が領地であった
矢代荘に持ち帰り、この地に葬った塚が頼政塚です。この塚上には、
亀山藩の家老松平新祐戸敏房の撰文による「従三位源公之墓」と刻された
石碑にその由緒が刻されています。

近年この古墳を削り宅地に造成されましたが、塚の部分だけは残されました。

安永8年(1779)頼政末裔の松井宗安が石碑を建て頼政を顕彰しました。

碑の表面には「従三位源公之墓」と刻まれ、
背面・側面には石碑建立に至った由来が刻まれています。




丘陵から亀岡市街が一望できます。

江戸時代の古文書には近辺の僧侶がこの塚を掘り起こしてみたところ、
石棺があり驚いて埋め戻したと書かれています。
実際はこの小高い丘は6~7Cの古墳で、頼政の子孫の太田氏、
松井氏が近くに住んでいたことが、頼政塚の伝説を生んだようです。

頼政の石碑を建てた松井氏は鎌倉上杉氏の家臣太田氏の末裔で、
太田氏は広綱を祖としています。(松井氏の住んでいた
現在の稗田野町太田は頼政の子孫太田氏の発祥の地とも伝えられています。)


太田氏・松井氏の祖「源広綱」
頼政の末子広綱は、頼政の嫡男仲綱の養子となっています。

以仁王挙兵の際、広綱は頼政の知行国の伊豆にいたため生き残り、
伊豆で挙兵した頼朝に仕え、平氏追討軍に加わります。
1184年広綱は駿河守となりますが、
1190年頼朝上洛の際に突然逃亡し僧となって上醍醐に住みました。
その理由は駿河国の国務について希望がかなわなかったことや、
頼朝の右近衛大将拝賀の際の供奉人に加えられなかったため恨みを懐いたといいます。

広綱は太田氏の祖となりその子孫は繁栄し、
室町時代には江戸城を築城した太田道灌(持資)を出しています。
江戸時代の子孫が「鵺池碑」や平等院の「扇の芝の歌碑」、「頼政塚」を建てました。
源頼政の史跡(平等院扇の芝・頼政の墓)  
「平家物語」巻4(鵺の事)によると頼政は近衛、二条天皇の御代に
鵺を二回退治しています。
そのうち二条天皇の応保年間(1161~62)には、
鵺を退治して御衣とともに、伊豆国を賜り(知行国主)嫡男仲綱を国司とし、
丹波国五箇庄(現在の南丹市日吉町)、若狭の東宮河(とうみやがわ)を
知行したとも書かれています。
尚、鵺退治を高倉天皇の御代としている書物もあります。
頼政鵺退治(鵺池・神明神社・鵺塚 ・東三条院殿址) 

亀岡には源頼政挙兵に園城寺と共に僧兵が
呼応したという「神蔵寺」、頼政の守り本尊の「矢の根地蔵」があります。
また義経に従って那須与一が一ノ谷に向かう途中、
急病になった与一が病気快復を祈願したという「那須与市堂」など
多くの伝承が残っています。
 
      神蔵寺 (源頼政)  矢ノ根地蔵 (源頼政)  那須与市堂
 『アクセス』
「頼政塚」亀岡市西つつじヶ丘霧島台 京阪京都交通「頼政塚バス停」より徒歩15分位
京阪京都交通「西つつじヶ丘バス停」より徒歩3分
『参考資料』
新修「亀岡市史」(1)亀岡市史編さん委員会 「系図纂要(さんよう)」名著出版 
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫「平家物語の虚構と真実」(上)上横手雅敬
 「大日本人名辞典」大日本人名辞書刊行会 「京都府の地名」平凡社 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







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源頼政の家臣古川右内は、平治の乱(1160)後、隠居をして
頼政の政の一字を賜り「
太敬庵通圓政久」と名乗り、
宇治橋東詰に庵を結んでいました。

治承4年(1180)、頼政が以仁王を奉じて平家打倒の兵を挙げた際、
頼政のもとに馳せ参じて頼政に茶を献じ、
宇治川合戦で平家軍と戦い戦死したとされています。
狂言『通圓』は、この主従関係を物語った作品です。



その子孫は代々、通圓の姓を名乗って宇治橋の橋守となり、
そのかたわらに宇治橋東詰で茶店を営み今日に至ったという。
『今昔都名所図会』によると、店には初代通圓の像と秀吉が宇治橋三の間から
宇治川の水を汲ませたという釣瓶(つるべ)を秘蔵しています。


通圓の墓は、平等院の塔頭の浄土院境内の頼政供養塔の傍にあります。

太敬庵通圓之墓と刻まれています。

『参考資料』
竹村俊則「今昔都名所図会」(洛南)京都書院 竹村俊則「昭和京都名所図会」(南山城)駿々堂 
 

 

 







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