平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




治承4年(1180)8月、伊豆に配流されていた頼朝が、
平家打倒の兵を挙げ、伊豆国目代の山木兼隆を討ち初戦に
勝利しましたが、続く石橋山合戦では、平家の大庭景親軍に惨敗しました。
この頃、東国各地に反乱の火の手があがり、東国の兵が
頼朝の許に集結しているという
知らせを受け、
同年9月、清盛はこれを一掃しようと追討軍を派遣しました。
大将軍は維盛、副将軍は平忠度です。維盛は重盛の嫡男で生年二十三、
その姿は絵にも描けないほどの美しさです。
忠度は清盛の末弟で歌人としても知られる風流人、ともに馬、鞍、鎧、
太刀にいたるまで、目もまばゆいばかりの装いの出陣でした。

同年9
18日に新都(福原)を出発した追討軍は、兵を集めながら
進軍しますが、なかなか兵が集まらないまま、
同年10月18日、富士川の畔に到着しました。
一方、石橋山で敗北した頼朝は、房総半島に逃れ安房国の豪族千葉氏や
上総介らの援助を受け頼朝の軍勢は強大化していました。
さらに源氏軍は足柄山を越えて甲斐・信濃の源氏と合流し、
『山塊記』によれば、数万騎に膨れ上がり富士川に迫っていました。
これに対し維盛軍は「千騎」だったという。

維盛は東国の事情に明るい斉藤別当実盛を召して
東国武士たちの勇猛ぶりを聞きました。「武将一人につき少なくても
五百騎は率いており、馬に乗れば落ちることを
知らず、悪路を馳せても
馬を倒さず、戦いに行くときは、親が死のうが、
子が討たれようが、
その屍(しかばね)をのりこえ、のりこえ戦いまする。

西国の戦と申すは、親が討たれれば供養し、喪があけてから戦い、
子が死ねばそれが
悲しいとて攻めませぬ。
兵糧米が尽きれば、春に田を耕し秋に刈り取ってから
攻め寄せます。
夏は暑いと、冬は寒いといって嫌がりまする。東国の戦いには

そういうことはいっさいござりませぬ。
甲斐・信濃の源氏どもはこの辺りの地理に
通じております。
富士の裾野の中腹から背後に迂回するやも知れませぬ。

実盛、今度の戦で生きて都へ帰ることができるとは思っておりません。」と
申し上げると、
兵らは恐れをなし、震えわななきあいました。

こうして明日は矢合せという10月23日の夜、平家の兵が
源氏の陣を見渡すとあちこちに火が見えます。
これは戦を恐れて野山や海、川に避難した住民の夕餉の火でした。
それを兵らは、すっかり敵に囲まれたと錯覚して大騒ぎします。
その夜半、武田信義が平氏の陣の背後を襲おうと移動したところ、

折から富士沼にたくさん群がっていた
水鳥がいっせいにぱっと飛び立ちました。

もとより浮足だっていた平家軍はその羽音を源氏の襲来と勘違いし、
我先にと落ちて行きます。

あくる朝、源氏の大軍が富士川に押し寄せ、
鬨の声をあげますが、平家の陣からは物音一つしません。
人をやって様子を探らせると「皆逃げ落ちております。
平家の陣には蝿の一匹も
とんでおりませぬ。」と申す。
頼朝は馬を降りて兜をぬぎ、手水うがいをして

都の方を伏し拝み「これは全く、頼朝の軍功ではござりませぬ。
ひとえに八幡大菩薩のおはからいと存じます。」と言いました。
こうして富士川の合戦は合戦らしい合戦のないまま、
平家軍は敗れ戦いは終りました。

維盛、忠度らが帰ってくると入道清盛は追討軍の不甲斐なさに激怒し、
「維盛を鬼界が島へ流せ。
侍大将上総守忠清を死罪にせよ。」と命じますが、
一門のとりなしで何とかおさまりました。

平家越碑・飯盛浅間神社 
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 
永原慶二「源頼朝」岩波新書 
村井康彦「平家物語の世界」徳間書房 
「平家物語がわかる」朝日新聞社 「歴史を読みなおす」(8)朝日新聞社

上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 検証「日本史の舞台」東京堂出版 
高野賢彦「安芸・若狭 武田一族」新人物往来社 
川合康「源平合戦の虚像を剥ぐ」講談社選書
「歴史人」(2012年6月号)KKベストセラーズ

 



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