平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 


黄瀬川東の八幡神社境内には、奥州平泉から駆けつけた義経と
頼朝が
腰掛けたという対面石が残されています。
ここから義経が歴史の表舞台に登場します。



三島駅南口からバスに乗り、医療センター入口で下ります。



八幡神社正面の大鳥居

富士川の合戦に勝利した頼朝は直ちに京都に上ろうとしましたが、
東国の統一が先決であるという千葉常胤らの進言で
上洛を断念して、黄瀬川宿に入った頼朝を
九郎義経が訪れ、
過ぎし日のことなどを語り喜びあいました。

大きく枝を広げたねじり柿の木



治承四年(1180年)十月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてきた時、
鎌倉にあった源頼朝はこの地に出陣した。たまたま、奥州からかけつけた
弟の義経と
対面し、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたという。

この対面の時、兄弟が腰かけた二つの石を対面石という。
またこの時、頼朝が柿の実を食べようとしたところ、渋柿であったので
ねじってかたわらに捨てた。
すると、後に芽を出し二本の立派な柿の木に成長し、
この二本は幹をからませねじりあっていたので、
いつしかねじり柿と
土地の人は呼ぶようになった。 清水町教育委員会(現地駒札より)

黄瀬川陣 安田靫彦画  
画像は、日本経済新聞(2007年8月5日朝刊)より引用させていただきました。


中鳥居と太鼓橋

八幡神社の大鳥居をくぐるり、桜並木の参道を進むと うっそうとした神域に入ります。
社伝によると
主神を 応神天皇とし、相殿には比売神(ひめかみ)
神功皇后を祀っています。創建年代は未詳で、 駿河国桃沢神社の故地とも
伊豆国の小川泉水神社
 
鎮座していた八幡神社をここに遷座したとも伝えられています。
以後、源頼朝は社殿の再建、境内の整備などを行い、 徳川家康は足柄越であった
東海道を箱根路に改めた時、
これまで西向きであった社殿を南向きにし、街道に面して
参道を
つくり、社領二十石、太刀を寄進するなどの篤い信仰をよせました。


社殿

拝殿内部



柿田川の湧水を引いた手水舎
その傍にたつ鳥居をくぐると源頼朝を祀る白旗社があります。


黄瀬川宿は旧東海道の要衝で、頼朝はここで二度陣を布いています。 
一度は維盛を総大将とする平家軍との富士川合戦です。
この合戦に勝利した頼朝は上洛せずに東国を固めることを決意し、
黄瀬川に戻って宿とします。
そこへ義経が奥州平泉から駆けつけ
頼朝と涙ながらに対面した逸話はよく知られています。
母親は違っても、ともに平治の乱で非業の死を遂げた源義朝を父とする兄弟、
その時、兄弟が
腰掛けたといわれる対面石が八幡神社境内北側にあります。
二つの石は、もとは江戸時代に八幡村を支配した
旗本久世氏の陣屋にあったといわれています。 
 

その5年後、文治元年(1185)11
月、
平家を壇ノ浦で
滅ぼした
頼朝は義経討伐に
上洛するため黄瀬川宿に留っていましたが、 
義経都落ちの報をうけて鎌倉に戻りました。

また三島社祭礼の夜に挙兵した頼朝は、北条時政らに命じて
伊豆国目代山木兼隆の館を襲い、兼隆を討ち取りました。
兼隆の郎従の多くは祭礼後、黄瀬川宿に逗留して
遊び歩いていたので不在であったといい、

当地が東海道の宿とともに遊興の場であったことが窺えます。  


黄瀬川宿は黄瀬川の流路変更などが要因となって、
現黄瀬川右岸の木瀬川地区だけでなく
対岸の八幡地区なども含んでいたと考えられています。
黄瀬川の陣で義経、頼朝と対面  
 

『アクセス』
「八幡神社」静岡県駿東郡清水町八幡39

JR三島駅南口①乗場から沼津登山東海バス 旧道経由沼津行(15分)

「医療センター入り口」下車3分

バスのダイヤは一時間に1、2本 

『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(1)(2)吉川弘文館 

「静岡県の地名」平凡社 「静岡県の歴史散歩」山川出版社
元木泰雄「源義経」吉川弘文館

 

 

 



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