平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




 富士川の戦いに勝利した頼朝は「上洛し、いっきに平家を討て。」と命じますが、
千葉介常胤、三浦義澄、上総介広常らはこれに反対しました。
まだ源氏に服属しない常陸の佐竹義政・秀義らを討ちとり東国を固めることが
先決だと主張したため、頼朝はこれに従わざるをえませんでした。
富士川合戦の翌日、一人の若者が黄瀬川の陣を訪れ「鎌倉殿にお会いしたい」と
申し出ますが、土肥実平(さねひら)・土屋宗遠・岡崎義実らは
怪しみ取り継ぎませんでした。頼朝はこれを聞き
「年のころを思えば奥州の九郎ではないか。」といったので、
実平が案内したところ果たして義経でした。
義経は頼朝の御前に進み、互いに昔を語り合って涙を流します。

頼朝は「白河院の御代、八幡太郎義家殿が後三年合戦で戦われた時、
新羅三郎義光殿が兄の苦戦を伝え聞き、官職を投げうって密かに奥州に下り、
兄を助けてたちまち敵を滅ぼされたが、この度、九郎がやってきたのは
この先祖の吉例と同じである。」と大そう喜びます。
千葉介常胤、上総介広常らが上洛を拒否したように、簡単には頼朝の命に
服そうとはしませんでした。安房の大豪族たちを統率することは、
並大抵のことではありませんでした。それだけに身内の参入は
頼朝にとって心強いものだったに違いありません。

平治元年(1159)、源義経は源義朝の末子として誕生し、
幼名を牛若、九郎と呼ばれました。この年に起こった平治の乱で
敗軍の将となった義朝は惨殺され、常盤は義朝との間にもうけた子を
出家させるという条件で三人の子供は許されました。清盛の寵愛を受け、
常盤はのちに「廊御方」とよばれる女の子を生んでいます。
ついで常盤は一条大蔵卿長成という貴族の後妻となり
能成(よししげ)をもうけました。能成は異父兄の義経が頼朝から
追われる身になると、その逃亡を助けた人物として知られています。

『吾妻鏡』には義経の生い立ちについて「義経は平治二年正月にはまだ産衣に
包まれていた。父の死にあってからは、継父の一条大蔵卿長成に養育され、
出家するために鞍馬山に登った。しかし成人する年となってから
しきりに仇討の思いを抱くようになり、自分自身の手で元服し、
秀衡の強大な勢力を頼んで奥州に下向してから今まで多くの歳月が流れた。
今度頼朝が宿望を遂げられようとするのを聞き兄の陣営に加わるために
平泉を出ようとしたところ、秀衡はこれを強く引きとめたが、
義経はひそかに館を出た。秀衡はやむをえず佐藤継信
忠信兄弟に命じてそのあとを追わせた。」と記されています。

義経が奥州平泉藤原秀衡を頼り下向した背景について
『王朝の明暗』の中で、
角田文衛氏は義経の継父長成と元鎮守府将軍で
陸奥守であった藤原基成との
姻戚関係があるとされています。
藤原基成の父は従三位大蔵卿忠隆で常盤の夫長成の
従兄弟であった。
基成の弟は平治の乱の首謀者藤原信頼(のぶより)であり、

娘は藤原秀衡と結婚して泰衡を生んでいます。藤原基成は藤原道長の兄
道隆につながり、関白基通は基成の甥という家系でした。

康治2年(1143)から仁平3年(1153)まで陸奥守を務め、守を退いてから
一旦都に上るが、平治の乱で敗れた弟藤原信頼の縁座によって陸奥に流されます。

しかし、平泉では藤原秀衡の舅として相当の影響力をもつ有力者でした。

基成が陸奥守に任じられて以降、基成の関係者が陸奥守を独占し、

陸奥国との関係が深い一族でもありました。当時、平泉は平家政権の
勢力圏外にあり、
独立国家のような存在であったため、
義経が隠れるには最も安全な場所です。

頑として出家しない義経に困りきった常盤が夫長成に頼んで
基成あての紹介状を
書いてもらい義経は奥州へ下向したと察せられます。
基成は弟の信頼が平治の乱を起こし、義朝を死に追いやったことへの
責任感から
長成の頼みをむげに断ることができず、
藤原秀衡の了解を得たものと思われます。


では、
義経を受けいれた奥州の藤原秀衡とはどのような人物だったのでしょう。
永承6年(1051)陸奥の豪族安倍氏が国司に反抗し「前九年合戦」とよばれる
反乱が起こり、朝廷は源頼義を陸奥守に任じ、安倍氏討伐に向わせました。
頼義は子の義家とともにその後12年にわたって東北地方をまきこんだ乱を
清原氏の援助を受けて苦戦しながらも鎮圧しました。
それから20年余のち、今度は奥州の覇者となった清原氏の同族争いが起こると、
陸奥守八幡太郎義家がこの争いに介入し、最終的には義家が清原清衡を助け
その叔父武衡、弟家衡らを討って清衡を勝利させました。

清衡は平泉に館を移して拠点とし、ついで実父藤原経清の姓藤原氏に改姓し、
奥州藤原氏の祖となり、二代基衡、三代秀衡と発展する基礎がつくられました。
砂金の産出もあり奥州に富と平和がもたらされ、初代清衡が中尊寺、二代基衡が
毛越寺(もうつうじ)という大寺院を造営しています。三代秀衡は宇治平等院に模した
無量光院を造営、嘉応2年(1170)鎮守府将軍に任じられ、養和元年(1181)には
陸奥守従五位上に叙せられています。文治3年(1187)奈良の大仏修復に際し、
頼朝が黄金千両を寄進したのに対して秀衡は五千両を寄進しています。
奥州藤原氏の繁栄は、八幡太郎義家のお陰であることは秀衡も知っていたはずです。

頼朝・義経対面石の画像を載せています。 八幡神社・対面石

『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 角田文衛「王朝の残映」東京堂出版 上横手雅敬「源義経」平凡社

上横手雅敬編著「源義経 流浪の勇者」文英堂 元木泰雄「源義経」吉川弘文館 
五味文彦「源義経」岩波新書 黒板勝美「義経伝」創元社

奥富敬之「義経の悲劇」角川選書 別冊歴史読本「源義経の謎」新人物往来社 
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社  「第5巻源平の盛衰」世界文化社

 



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