平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




JR吉原駅から岳南鉄道に乗り、吉原本町駅で下車、
東方向に12分ほど歩くと和田川の袂に「平家越の碑」がたっています。
この碑は平維盛率いる平家軍が、水鳥の羽音に驚いて戦わずして
敗走したという
故事にちなんで建てられた もので、
現在の富士川から6Kほど東に離れたところにあります。
かつてこの辺りの和田川の袂には「平家越え」という小字名があり、
富士川の河川敷だったといわれています。

甲斐源氏が迂回して、平家陣の後方に回ろうとしたときに
水鳥が飛び立ったと伝えられています。

平家越
治承四年(1180)十月二十日、富士川を挟んで源氏の軍勢と平家の
軍勢が対峙しました。その夜半、源氏の軍勢が動くと、近くの沼で眠っていた
水鳥が一斉に飛び立ちました。その羽音に驚いた平家軍は、
源氏の夜襲と思い込み、戦いを交えずして西へ逃げさりました。
源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのは、この辺りといわれ、
「平家越」と呼ばれています。 対岸は平家軍


現在、富士市の西部を流れている富士川は、相模川と並ぶ急流であったため
「暴れ川」と呼ばれ 、時代によって幾度も流路を変えてきました。
江戸時代までは本流がもっと東を流れ、その流れは
いく筋もの支流を集めて氾濫を繰り返していました。

江戸時代初期に築かれた雁(かりがね)堤が
富士川の流れをせき止め流路がつけかえられた結果、
一帯を「加嶋五千石」といわれる水田地帯に変えてしまいました。








「平家越碑」の北東に位置する原田公園の一角には、富士川合戦の際に
源氏軍が食糧を
いたという飯森浅間神社があります。









境内説明板には、「御祭神・木花之佐久夜昆賣命 
治承4年(西暦1180年・平安時代後期)
平両軍対陣の際、源軍は当神社に糧をおき、兵士此れを守備せしより
『飯守明神』としたと伝えられ云々」と記されています。

原田公園の西方には、呼子(よびこ)の笛を吹いて源氏の兵を集めたという
呼子坂の碑があるそうですが、
見つけることができませんでした。
富士川の合戦
『アクセス』
「平家越の碑」 富士市新橋町11-5 
JR吉原駅から岳南鉄道に乗り「吉原本町」駅下車 吉原商店街と反対方向の東へ徒歩12分位
「飯盛浅間神社」 富士市原田字飯森東 岳南鉄道「岳南原田」駅下車徒歩15分位
『参考資料』
「描かれた富士のふもと」富士市立博物館  「静岡県の地名」平凡社
「静岡県の歴史散歩」山川出版社



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