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ただの日記

学校の制服

2022年04月12日 | 日々の暮らし
 一昨日の再掲日記で、
《「形から入る」
 みんなが防災服と称する「作業服」を一斉に着て、震災対策に取り組む。
 しかし、その防災服というのは名前以外、取り立てて特殊な機能を持たせてあるわけではない。
 ということは、「形から入る」というのは、「同じ服を着たら、その気になる(ぴしっとする)」ということだけか。

 新入生は、その学校の制服を着る。着なければならない。
 それは当たり前だ。
 その学校の校風や、精神が好きで入学したけれど、まだ、何もかもがよく分からないから、せめて「その学校の真似できること」から始める。
 その点、制服は格好の練習法なわけだ。これは頷ける。
 表現は違うけれど、「悪いことはすぐ習う」「悪いところばかり習う」と以前に書いたのと、同じ理屈だ。》

 というのを挙げたけど、何かいい例はないかなと思っていたらこれを思い出した。つい先日終了したけれど、テレビアニメ(雑誌では連載中)の「明日ちゃんのセーラー服」。
 
 生徒がたった一人の小学校生活を送っていた女の子がアイドルタレントのセーラー服姿にあこがれ、「同じセーラー服を着たい」と私立女子中に入学し、眩しいばかりの中学生活を送る物語。
 何の変哲もない話のように見えるけど、実際に入学した学校は既にセーラー服からブレザージャケットに制服が変更されていて、セーラー服の新入生は(在校生も含め)一人もいない。
 成績、運動神経共に抜群であることに加えて、容姿、性格も良い、これ以上ない、みたいな女の子がただ一人セーラー服でブレザージャケットの集団の中にいる、というあり得ない設定の方に目が向くけれど、好例だと思ったのは「あのセーラー服を着たい」から、この女子中学に決めたという部分。

 本末転倒してるみたいだけど、学校に入るというのは「教育を受ける」ということで、少なくとも日本の場合は教育の中身はそんなに変わらない。学校を選ぶ理由が「あの制服を着たい」「毎日あの校舎で勉強したい」「あの学校の生徒だ、と胸を張って言いたい」等であっても何ら不思議ではない。
 要は「しっかりとした教育を受けて、社会に出てから十分に力を発揮できるようになること」。

 この話(「明日ちゃんのセーラー服」)も初めこそ当人の「一人だけ服が違う」という葛藤(恥ずかしい、でも、セーラー服を着たくてここに入った)に悩む姿が描かれるが、自分が言い出したことだし学校の許可もある、ということから、それで過ごすことを決心してからは制服の本意(この学校の生徒として勉強をするという自覚、或いは覚悟)を感得し、拘らない生活を展開するようになる。
 勿論、題名の通り、この制服は事あるごとに話のキーポイントとして意識されるのだが。

 空手の稽古着は元々、講道館で表演する際、普段着のままでは見栄えが悪かろう、と急場しのぎに柔道の稽古着を借りて型を見せたところから始まったという。柔道の稽古着は剣術(捕り手術も型の中にあった)の稽古着の刺し子程度では間に合わないから、あのように分厚い刺し子状の生地になった。下穿き(ズボン)はそこまでの強度は要求されなかった。
 空手を習う時、初心者はまず、「その」空手着を身に着けることでその気になる(なろうと努力する)。柔道しかり、剣道しかり、まず「形から入る」。

 学問、学校教育では見えない頭の中を鍛えるわけだから、「学習着」があるかと言えばそんなものはない。でも形から入りたい。と言うより形から入ることしかできない。そこで学校独自の制服であり、学校独自の建物が作られる。
 勿論そこを「うちの学校は制服などというものはない。それがわが校の精神だ」とひねくれたことをいう学校もある。それは制服のある学校に囲まれているからこそ成立する理屈であって、「制服がない理由を事あるごとに意識させる(せざるを得ない)という『制服』」を着ているようなものだ。
「明日(あけび)ちゃん」のセーラー服と同じだということになるかも。

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