CubとSRと

ただの日記

或る日突然

2020年05月13日 | 心の持ち様
2014.07/15 (Tue)

 ・・・・・なんて大昔の歌の題名みたいな書き出しですが。

 でも、ホントに、或る日突然、何かが何の前触れもなく(だから「突然」なんですけどね)変わっていて、
 「ねえ、何で?いきなりなんだけど。全く理由が分からないんだけど。」
 、と問い掛けても全く反応がなく、
 「おかしいな~、おかしいなぁ~」「変変変~~~~っ!!」
 って叫んでも何も変わらず、ってのはどうにも気持ちが悪いものです。
 実は、普通はそんなこと、一杯あるんですよね、身の回りに。ただ、能々注意してみれば大方のことには説明がある。

 で、気持ち悪いながらも「辛抱して慣れなきゃ」と自分に言い聞かせていると、意外に短期間で慣れる。慣れるけれども、考えて理解して置かなきゃ、何度でも同じ気持ち悪さを思い出すことになる。これは考えようとしなかった本人の怠慢によるところが大きい。
 お前だけだ?いやいや、そんなことはない。


 中学生の時に、山陰の田舎町の中学から山陽の「街」の中学に転校して来ました。
 二ヶ月ほど経った週明けの或る日、突然。
 定例の朝礼があったんですが、時間に行って並んで見ると、全員が半袖の開襟シャツになっていた。
 一人だけ長袖のシャツを着ていた私はとにかく袖だけは捲り上げたんだけれど、どうにも居心地が悪くって。
 全校生500人ほどだったと思うけど、みんな半袖なんですよね。もしかしたら、数人は長袖の生徒がいたかもしれない。
 けど、「一人、二人、みんな」の逆バージョンです、数名くらい長袖の者が居たって、パニックになってるからほとんど目につかない。

 これ、冷静に見ればなんてことはない話なんですよね、
 「夏服に更衣、となるのが月曜日だった」
 、と言うだけの話です。

 私が、その連絡をちゃんと聞いてなかったんなら、「ただの天然」、とか「おバカ」とか「間抜け」とかいうことなんですが、実は更衣のことは知っていた。
 けれど、付け替えるべき名札の準備が出来てなかった。
 移行期間が設定されていたから、焦ることもない、ということで火曜か水曜で十分、と高をくくっていたんです。
 それが見事なくらい、校庭は白一色になっていた。

 転校した時、教室に教壇があるのを見て驚き、なのに生徒と先生が友達みたいな会話をしていることに更に驚く。
 先生はいつも見下ろしているのに、決して緊張感なんか漂ってない。そんな学校があるんだ、と何となく思い込んでいた。早い話、「何ともいい加減な学校だ」「でたらめだなぁ。先生を尊敬してないのか」、と。

 なのに、「更衣」だけは見事に揃う。これもカルチャーショック、と言うんでしょうか。
 もうほとんど半世紀近い昔のことなのに、今でもそのショックは思い出します。
 でも、その日のことは、それ以外何も思い出せない。
 理屈は分かっていても、眼前にそれだけが広がって視界を遮ってしまうと、その光景が思考活動までも制御してしまうようです。

 意外と集団的自衛権のことだって、そんな程度にしか捉えられてないんじゃないでしょうか。
 「ちゃんと説明してくれなきゃ分からないよねぇ~」、なんて言ったって、実際、ちゃんと説明したって聞いちゃあ、いない。
 「今それどころじゃないのよ、夕ご飯の準備で忙しいの!」
 「あ~、残念。煙草がキレちゃった。買いに行って来なきゃ落ち着いて聞けないな」
 とか何とか言ってね。
 何、お前だけだろう?い~や、そんなことはない。

 それで、こんな事を言う。
 「アメリカに頼まれれば嫌々でも戦争しなきゃいけないってことでしょ?」
 「湾岸戦争の時、『金は出すけど血は流さない』って、礼も言われず文句だけ言われたから、だろ?」
 等々。
 「集団的自衛権=集団で戦う権利」と思っている人が大半なんじゃないでしょうか。「自衛」とは書いてあるけど、「戦う」なんて言葉、入ってないのにね。

 能々考えると、色々中途半端な解説が溢れているんじゃないかなと思えてきます。
 例えば
 「『行使する』、と『行使できる』は一緒だろ?」
 と言うのは、余りにも大雑把な捉え方であり、無茶苦茶な展開じゃないでしょうか。
 安倍総理、「積極的平和主義」とは言ったけれど、「積極的に参戦する!リベンジだ!」、なんて言ってません。口が裂けても言いませんよ、言うわけがない。
 当然でしょう、総理大臣ったって国民の支持があってこそ成り立ってるんです。そんなこと言ったら国民から総スカン食らって、一瞬で総理の椅子から転がり落ちます。
 総理大臣は「親」じゃない。「いずれわかる時が来る」、なんて言ってられない。今、どれだけ国のことを思い、国民の為を思い、して奔走しても、「今の時点」で支持を得られなければ、すぐ首です。

 あ、大脱線しました。
 冷静に考えりゃ「行使する」のと「行使できると宣言する」のとは違う、ってわかります。そして「一緒に戦争をする」ことよりも「有事には多く(集団)の援軍が駆けつける」という「保険」を持つということが、何よりも大きな戦争抑止力になる、ということです。「行使できると宣言する」というのはそういうことです。「参戦する」とは別次元の話です。

 「個別自衛権だけ」、「専守防衛権だけ」、だなんて、こんな恐ろしいことはない。簡単に開戦に追い込まれるし、必ず負けます。核兵器を持っていても、です。だって、たった一国だけで戦うということなんですから。
 日本だけで世界中を敵に回して戦った「第二次大戦末期の状態から戦争を始める」と宣言するにも等しいことです。

 「集団的自衛権なんか要らない。自衛隊は憲法違反だ。九条があるから戦争はなかったんだ。自衛隊も日米同盟も要らない」
 なんて
 「警官が拳銃を持たなければ、犯罪者も武器は持たない」
 と同じでしょ?
 「九条があるから戦争は起きない」
 のなら
 「憲法に『台風が来ることはこれを認めない』と書けば台風は来ない」
 ということだと、笑った学者もいたそうです。

 実は最近のテレビを賑わす色々な話を見ていて、
 「物事にはちゃんと経緯があって、『ある日突然』なんてことはない。だから、たとえその時パニックになっても、それなりに物事の原因を考えて理解、納得しておけば、後に引き摺ることはない。」
 「しかし、考えることをしなければ、性懲りもなく同じ失敗を繰り返す」
 等ということを思ったものですから、ちょっと書き留めてみました。

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