CubとSRと

ただの日記

一芸に達すれば

2020年03月17日 | 日々の暮らし
2010.05/29 (Sat)

 「一芸に秀(ひいず)れば諸芸に通ず」
と言われますが、理屈から考えても、「秀でる」くらいでは、「諸芸に通ず」まではいきません。「秀(ひい)でる」はとび抜けて良い、という意味であって、群れの中の一つのままであることに変わりはない。群れの中の一つでは、群れの全容を把握することはできない。当然他の群れの全容を推測することも。
 しかし、一芸に徹して、それに適した物の考え方、生き方を体現するようになれば、全世界の物事も、予備知識なんかなくても、全てそれで解析する(できる)ようになる。

 筋道の通ったもので、解析できないものはない。どうしても解析できないものに出会ったとしたら、それは、まともな筋立てなしで、その時機のみに咲いた徒花でしかない。いずれ、「歴史の歯車」に踏み潰されるものだから、「徒花」で処理して、問題はない。
 ・・・・・と、まあ、決めた、とします。
 最初はこれでいいんですが、気がついたら「周りがみんな『徒花』だらけ」といったことになります。
 ばっさばっさと「徒花だ。切り捨ててしまえ」とやってしまうのを、「教条主義」と言うんでしょうね。反対に、「もうちょっと待て。まあいいんじゃないか、そのくらいなら」と大目に見るのを「修正主義」と言うんでしょう。前者はガチガチ、後者はナアナア。
 双方に共通しているのは、「考え方が、まだ身についてないから応用が利かない」ということです。
 もう一つ。それぞれの態度を批判的に見ていること。それ自体(批判的に見ること)に問題はないのだけれど、目的を忘れると内ゲバが起きます。
 
 日本はすごい。
 「教条主義」、とか「修正主義」とか、あまり聞かない。同じことをやっても、そういった解決法に走らないみたいです。
 何故か。どうも、「謙虚さ、思い遣り」があるから、みたいですよ。
 いきなり、枝道に入ってしまいました。

 今回は、前にちょっと名前を出した「鵤(いかるが)工舎」のことを書いてみます。
 西岡常一という、法隆寺の寺番匠(宮大工です)がいました。
 名人という評判で、大学の建築学の専門の先生相手に、一歩も引かずやり合って、結局、西岡棟梁の方が正しいと証明されたこと、一度や二度ではないそうです。
 だからと言って、氏は建築学などを習ったわけではない。自身の家が、代々、法隆寺の寺番匠なので、祖父を師として学び、農学校を出て、大工の腕を身につけた、だけなのだそうです。
 それでも、「法隆寺の西岡常一」という名前は、古建築の世界では知らぬ人はないほどの名前です。

 そこに弟子入りを希望してきたのが小川三夫少年です。当時、高校生。
 西岡氏は「今は仕事がないので教えることができない。高校をでて、或る程度の修業をしてから」と断わります。
 でも、或る程度修業をしてから、と言われたのだから、と小川少年は仏壇屋で修業をし、やっぱりどうしても西岡氏に就いて学びたい、と頼み込みます。
 結果、弟子入りを許されるわけですが、後に小川氏は言われたそうです。
 「弟子にとる気はなかった。仕事がないのは本当だったが、高校生ではもう駄目だと思っていた。」
 さらに、これは西岡氏の本にあったのですが、氏は「もう、名人と言われるような職人にはなれないが、人を使う『棟梁』、なら立派にやって行けるだろう」とも言っています。

 言葉通り(と言ったら失礼すぎますが)、小川氏は一流の腕は持つようになるものの、一人の力では間に合わないのだから、と、後進を育てることに力を発揮するようになります。西岡氏の折に触れての教えは、集成されて、「鵤工舎」として結実、西岡氏亡き今、後継としての小川氏の「鵤工舎」を、斯界で知らない人はないでしょう。

 「一芸に達すれば~」の文言とどうつながるのか。
 鵤工舎では、新聞、テレビ、車にバイク、(もしかしたら、いや、きっとケータイも)全てなし、だそうです。
 「車やバイク禁止、はよくあることだから、わからんでもないけど」、と思った人。それは早合点です。クルマ、バイクは逆にかわいいもんです。
 「新聞もテレビもいらん。」西岡氏の教えです。
 「どうしてですか?」「気が散る」

 とにかく、弟子入りしたら、そういうものは、一切不要。鑿と砥石だけ渡す。
 現場に行けばできることは、というと何もない。
 かろうじてできるのは掃除だけ。弟子入りしたら、掃除をすることと、食事をつくる当番の中に加わること。これで、給料をもらいます。

 というわけで、
 ①しょっちゅう掃除をする。・・・ここで何を学び取るのでしょうか。
 ②仕事(掃除ですが)を終えて工舎に戻る。団体生活です。先輩の生活リズムに合わせての行動。・・・ここで、何を学び取るのでしょうか。
 ③夕食後、道具の手入れ。先輩は、時には鑿だけでも十本以上研ぎ上げます。人によると、日付けが変わる頃まででも手入れをしている。(イチロー選手みたいでしょう?)
 弟子入りしたばかりの者は、一本の鑿を見よう見まねで研ぐ。先輩が十本、二十本やっているのを横目で見ながら。誰も自分のことで精一杯。相手をしてくれません。・・・・ここでは、何を?

 こういった毎日を積み重ねるうち、①で仕事の手順を、「頭」と「身体(感覚)」で覚えます。
 掃除をすれば、仕事の段取りが「理解」できます(頭、です)。
 掃除をすれば、鉋屑の具合で段取りの進行具合がわかります(感覚です)。
 最初は厚い、ざっくりとした鉋屑が、作業が進むにつれて、ドンドン薄く、滑らかになり、終いには向こうが透けて見えるようになる。

 掃除で仕事の概要を理解する。鉋屑の変容で仕事の中身を分かる。

 ②では、職人としての生活のパターンづくりを倣います。如何に無駄のない、同時に、腕を磨ける生活をしているか。新聞やテレビで情報を得るより、先輩の行動をトレースすることで、自身を再構築していくわけです。身も心も、です。

 ③は、意欲を以って行動することを、常態とする修行です。鑿を研ぐことは、大工の必須条件である、「これ(自分の研ぎ上げた鑿)を遣ってみたい」という心を育てることになります。でなければ、仕事は続かないのですから。

 集中力がここでつくられ、毎日の繰り返しで持続力につながり、持続力が増せば、集中力も以前とは比較にならないほど向上している。
 ここに「量質転化」が見えるでしょう?
 先輩との共同生活の中に、「対立物の相互浸透」もある。だから人間も変わっていく。
 「きれいな鉋屑が出るまでに十年かかるって俺はいってるけど、実際そんなのはもっと早くできるんだよ。できるんだけれども、『まだまだきれいに削れるだろうと思って一所懸命やる姿勢』が大切なんだ。」

 「新聞もテレビもいらん」「どうしてですか?」「気が散る」 


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