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ただの日記

大嫌いだった感想文だけど

2020年06月30日 | 心の持ち様
2015.12/29 (Tue)

 田舎に戻っていた、この八年間。時間はたっぷりあるのだから、と読みかけの本をはじめとしていろいろなものを持って帰っていた。
 その上、振り返ってみれば帰ってから買った本も数十冊。
 ところが、みんな(、は言い過ぎだけど、半分以上は)読みさしのまま今日になってしまった。一体何をしていたんだろう、と思う。

 そうは思いながらも、田舎に帰ってから始めたブログのおかげで、ボケ始めていた頭がそれなりに動き出してきたようにも思う。
 また、ともすれば塞ぎ込みそうになるのを、頭を使うことで回避できたし、戴いたコメントが支えになる、なんてこともあった。
 やはり、話す相手を限定して、自分なりにその相手を意識して文章を書く、ということに勝る脳の訓練はないのではないか。
 これは他人様のブログを拝見しているだけでは遂に実感することはなかったろうと思う。
 自分もそれなりの(自分で日記を書いてみるということ)活動をしなければ。自分を変えるのは自分しかいないんだから。

 多くのブログに、優れた意見は一杯ある。素晴らしいブログもたくさんある。
 だから、それらを見て「なるほど!」、と納得する場合も一杯ある。
 「納得する」、「賢くなった」、と思う。そうなれば他の人にも知らせたいと思う。。
 それで実際、自分のブログで紹介をする。うまくいけばそれこそ「燎原の野火」のごとくにあっという間に広がっていく。仕掛けたのが自分だと思うと何だか誇らしいような気持ちになる。
 低次なレベルで一過性のものを「炎上」というのだろうけれど、少なくともそれによってなるほどと思い、考えを深めていく人も現れるようになるだろう。

 それはそれで良い。けど「賢くなった」と思うのと、「他の人にそれ(そのような意見)を知らせた」ということは別の問題。「知らせることで自らが賢くなる」わけではない。
 「知らせる」ために、素晴らしいブログの文章を、まとめる、要約する等、自分からの働き掛けがあってこそ、「脳の訓練」と言える。

 では、「知らせた」のではなく、「素晴らしいブログや意見でいろんなことを深く納得した」ら、「賢くなった」と言えるのか。
 それはないだろう。
 何度も書いている通り、「知って」、「倣って」、「修練し」なければ、何事につけ、身にはつかない。
 頭だって「身」の一部なんだから、「考え」だって同じだ。「知って」「倣って」「修練」しなければならない。
 「賢くなる」というのは「考え『方』」が身に付く、ということなのだから。

 「考え『方』」が身に付くということは、色々な問題を表面、或いは平面的に見ることができる、ということではない。
 立体的に、そして構造までも見通せる力を持つ、ということだ。
 一例を挙げるなら、歴史的に物事を見る力なんかは、そうだろう。力がなければ現時点での出来事ばかりが視野を塞ぎ、そのことの構造を見ることができず、本質などとてもとても、ということになる。

 「身に付く」、「身に付ける」ためには、「倣い」、「修練」しなければならず、「一読しただけ」で、「成る程と思っただけ」で、賢くなる(考え方が身に付く)のなら、俗悪なマスメディアがこんなに蔓延るわけがない。

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