CubとSRと

ただの日記

早々に諦める

2025年02月18日 | 日々の暮らし
 2月8日(土)

 6時過ぎに起きるが、今日は初めから散歩も習字もしないつもりだった。
 散歩をしなければ手が冷たい。手が冷たければ筆をちゃんと持てない。
 室温1~2度の中、正座して筆を持つ。それは無理。
 自慢するようなことではないが。

 昨晩はあの後、時々の強風だけで雪の降ることはなかった。
 強風の中では、降ったとしてもよほどの降雪でない限り、積もることはない。
 そう思って横になる前、窓外を見たらほとんど雲の欠片も見えない星空。
 風はない。空気は随分冷たい。
 勿論、雪の積もっている様子はない。

 そういうわけで、今朝早々に散歩・習字を断念して、血圧を測る。
 薬を飲み始めて上が130を超えることは滅多にない。
 その代わり、脈は51。あまり美しくない。

 やっぱり病院に向かうぎりぎりまで寝て居よう。
 
 
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今日も寒い

2025年02月17日 | 日々の暮らし
 2月7日(金)

 5時50分から6時半まで散歩。
 それにしても今日も寒い。連続だ。

 昨日の最低気温は-4,5℃ではなく、-5℃だったようだ。
 今朝は-4,3℃くらいだったらしいから、まだマシ。
 それでも両手の親指と人差し指はちっとも暖かくならないので、昨日と同じくヤッケのポケットに突っこんだまま歩いていた時間が行程の半分以上。
 手袋をしていても風があたれば一発で冷える、と久しぶりに実感。
 そうしてみるとやっぱりバイク用のグローブは大したもんだ。
 
 なんだか胸焼けがあるので、あの牛乳粥(ベーコン・玉葱・バター入り)をつくる。
 風はない。空気は冷たいが雲は少ない。
 ということは日が上れば暖かくなる(筈)。

 今日は風雪注意報が出ていて、「午後からは雪」の予報。
 なのに風はほとんどなく、陽射しも十分過ぎる。ただ、その割に気温は思ったほど上がらない。
 今週一週間は出られないと思っていたが、今日は別かも、とスーパーマーケットへ行こうと思いたった。

 スーパーマーケットで鮭の切れ端を買い占めてやろうと思ったのだが、1パックしかなかった。残念。勿論買ったけど。
 結果としては「買い占め」たことに間違いないけど。

 午後、予報通り大荒れの天気になった。雪そのものは積もるほどではなかったが、何しろ風が強い。昨日の凄さに輪をかけた強さで吹き荒れる。
 窓が虎落笛みたいな音を立てるのを聞いたのは何年ぶりだろう。
 
 午後8時。少し落ち着いた感があるが、時折り家が揺れるような感触の強風が吹く。明日一日こんな天気が続くらしい。
 今朝台所は0℃。二階は1℃。
 炬燵で朝食を摂ったのはこの冬初めて。
 何しろ台所でテーブルに向かって食べようとすると足指がかじかんで敵わない。
 
 
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異常に寒い

2025年02月16日 | 日々の暮らし
 2月6日(木)

 寒い。異常に寒い。
 午前4時半。台所に下りてホットレモンを作ろうとした。
 昨日も寒かったが、今朝は階段を降り、廊下を歩くと空気に悪意があるかのようにとげとげしい。
 一歩進むたびに皮膚に突き刺さって来るかのようだ。
 少しはマシな筈の台所の寒暖計を見ると、ちょうど0℃。

 6時5分から6時40分まで散歩。珍しいことに二日続けて6時5分発。
 玄関を出た瞬間、空気が昨日とは全く違うのが分かる。
 出て帰ってくるまで、手袋をしてヤッケのポケットに突っ込んでいる両手の親指と人差し指がずっと痛かった。
 初めて帽子の耳蓋いを下ろしてみたが、思ったほど暖かくは感じない。
 しかし使わなければ。でないと今日は耳がしもやけになっていたかもしれない。

 帰って朝食の準備をしている時は4℃。片付けを終えたら2℃の台所。

 冷え込みはきついが、今日は昨日ほどの風は、ない。日が上ればすぐに空気のとげとげしさは薄れ始める。
 これならば、と「お金の引き出し・払い込み・買い物と広範囲にわたって動けるかもしれない」、と買い物に出る計画を立てる。
 「隣市のドラッグストアに行って、納豆を買って、いや?ちょっと待てよ。だったら行き掛けにお金を引き出して、隣市の郵便局で振り込んで、その後、ドラッグストア、生協で買い物をしてひよどり台まで行って・・・」。

 計画通り実行。蜂蜜を買ったらあと半分。
 生協で蜂蜜を買って外に出ようとしたら、生協のビルに入る前からちらつき始めた雪は、小雪ながら明らかに舞っている。遠くの景色はすっかり灰色になって、この雪が気紛れでないことを示唆しているかのようだ。
 雪は西から降って来る。ひよどり台は西にある。

 これはもう駄目かも、と、遂に以降の予定を断念、帰宅することにした。
 屋根を閉めて走るのは、この冬に入って初めてのこと。
 ガレージに入れるのが一番心配だったが、意外に苦労せず駐車出来て一安心。

 明日の午後は数年ぶりに数時間の降雪があるという。積雪の心配もあるらしい。この辺りは積雪よりも後の凍結の方がこわい。日が当たらなければ何日も道を歩けなくなる。坂道がほとんどだから、当然車は走れなくなる。

 「冬用のタイヤを装着してない車は出ないように。装着していてもチェーンの用意を」とニュースが不安を煽り立てる。この辺りでは当然すぎることだけれど、市街地の平坦なところに暮らしていれば「何を大袈裟な」と感じるのだろうか。

 それにしても寒い。今朝の北区は-4,5℃。日中も2℃少々。
 完全装備でコペンに乗っていて、「ちょっと寒いか」と思ったのは今日が初めて。
 
 
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八方塞がり

2025年02月15日 | 日々の暮らし
 2月5日(水)

 6時5分から35分まで散歩。いつもより帰宅が5分早かったのは、ズルをしたわけではない。単に早く歩けたのだろう。
 特に調子が良いというわけではなかったが、早足気味になるのが苦痛ではなかった。
 
 が、風が強い。恐ろしく強い。それで押された??
 居間で炬燵に潜っていると、掃き出し窓になっている外側のガラス戸はともかく、内側の障子が風のせいで窓枠にあたる音が喧しい。
 二階は寒いが居間は喧しい。だからどちらに居ても落ち着かない。
 こういう時は昼寝をするのが一番なのだが、そう言うわけで寝られそうにない。かと言ってこんな天気じゃ出歩くこともできゃしない。

 出掛けるべき「用事」は、ある。田舎の家の下水検査費の請求書が届いたので払込みに行かなきゃならない。でも強風が吹き荒れている。そんな中、行くのは楽しくない。そこまでして慌てていく必要もない。
 払い込み期限は数週間先。そして今日はこの冬一番の「大荒れ週間」に入ったところ。

 「なにもできない」ようでいて、考えようによってはなかなか楽しい一週間かも?

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もう一つ再掲しておきます

2025年02月14日 | 心の持ち様
(最初のおしゃべりはカットして再掲)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  2013.02/09 (Sat)
   何を今さら・・・ですが。(「建国記念の日」こぼれ話)
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  (略)
 色々な問題に行き当たった時、その分野の専門知識なんか持ってないのが大方の人でしょう。持っていたって、専門の人からすれば小学生以下の僅かなものしか持ち合わせていないのが普通。
 だからと言って、その都度、万巻の書物、大量の情報を収集して猛勉強をし、判断に臨む、なんてこと、できる能力も時間もない。
 じゃ、どうする。

 そりゃもう、これまでに培って来た(?)「教養」にすがるしかない。
 「三つ子の魂」、で育まれて来た感性と、自身の知識、習った考え方、が綜合され、醸成されたものが「教養」ですから、「教養が邪魔をする」ことがあっても、やっぱり教養に頼らざるを得ない。そうやって、「彼(問題)の言動に筋が通っているか否か」、を見る。
 もし、「論理が破綻している」と感じたなら、「言動が一致しているか否か」と照合してみればよい。
 また、「心変わりをしたか、それとも狂ったか」、と見えたならば、当方の把握に問題がなかったか省みる必要がある。「己の理解能力の範囲内でしか対象を把握することはできない」からです。

 皇室を中心とした国体、歴史の捉え方を「皇国史観」と言うのですが、それは世間で解釈されるような「皇国を美化した」史観ではなく、精確には「皇国護持史観」とでも言うべきもので、敗戦まで、東大史学会の一方の雄となっていたのだそうです。一方の雄、と言うより「主流」、と言った方が良いでしょうか。
 中心人物は平泉澄(ひらいずみ きよし)博士。
 単純に言えば、日本は皇室を中心として国の形が作られ、それは連綿と今に至るまで続いている、という考え方です。
 政権が武士に移ったり、成り上がりの、何者か分からない者が実権を握ったような場合でも、「皇統」が途絶えたことは一度もない。皇室が消失されたことも、当然、ない。
 実権を握った為政者であっても、勅命を拝して初めて、国民を従わせることができる。それは建国の日からずっとそうだった。日本という国は、皇室・皇統を中心として成り立つ国であり続けようとしてきた。
 つまり「皇国を護持しようとしてきた歴史を持つ国」なんだから、その捉え方で歴史を見、継承するのが、正統なのではないか。
 大まかに言うとこういう考え方のようです。これを、平泉史学と言い慣わしているようです。

 田中卓博士は平泉博士の晩年の弟子で、後継者と目される人物です。
 御存知のこととは思いますが、敗戦時、GHQの占領政策の一つに、「公職追放」という、「各分野で戦争に協力した者を処分すること」、がありました。
 軍事裁判にはかからない人々を、公職から追放する。追放された人もあり、それを潔しとせず、辞職した人もあり、で、教育界も様相が一変しました。
 平泉博士は敗戦と同時に東大史学科主任教授の職を辞し、それでも、昭和23年から27年まで、公職追放されています。

 以前に日記に書きましたが、当然、残ったのは、唯物史観(大半は社会主義思想)の持ち主。残りは、言うまでもない、日和見主義。
 主流だった「皇国史観」は見事に切り捨てられ、払拭されてしまった。
 だから、教育界は一変するわけです。アサヒ新聞の変身(変心)と同じです。
 GHQの後ろ盾によって行われたこれは一種の革命とも言えるでしょう。

 田中卓博士は、同20年卒業。平泉史学を継承して学究生活を続けたため、論文の発表の場である史学会からは完全に無視される。だから当時から多くの論文を書きながら、その研究成果はなかなか日の目を見ることができないままだった、ということです。
 その弟子にあたるのが、所功氏。
 さらに、田中博士が皇學館の学長だった時、博士の推薦という形で、早稲田政経出身の新田均氏が、皇學館に奉職したのだそうです。

 こうやって書いても、ここまで読まれた人の中にだって
 「ああ、田中卓!小林よしのりの漫画に出てきた女系天皇推進論者だな!心変わりをしたBKDか!」
 なんて思われた方もあるでしょうね、きっと。
 判断は個人の自由。

 しかし初めに書いた通り、私は伝聞でなく、何か本人の言なり、文なり、の実例に当たって、自分で分からないなりに考えて、それから、判断したいと思います。そして、「彼(問題)の言動に筋が通っているか否か」、を見ようと思います。
 氏が巷間言われるように心変わりをした、ただのBKDならば、これまでの氏の業績は全く認められるものではないことになります。
 転向するということは「神勅が歴史を動かし、歴史が神勅を実証する」と説く、氏の言葉が、そのままブーメランとなって氏に返ってくるということです。
 歴史に「間違い」は存在しないのですから。それこそ歴史の歯車に、氏が世間に周知させた「万世一系」の言葉や「神武天皇実在論」と共に踏み潰されることになります。
 氏の文章を読む限り、氏の論は、そして学問に対する生きる姿勢は、終始一貫しています。少なくとも現時点での私にはそう見えます。

 今回、田中博士の評論集を入手することができたので、読後、私の感想を、と目論んでいたのですが、先に書いたとおり、「己の理解能力の範囲内でしか対象を把握することはできない」。博士の文は私如きの中途半端な考えで、気軽にまとめられるようなものではありませんでした。
 色々考えた結果、「やはりこれは相当に気合を入れて、何度も読み返すしかない、すぐに感想なんてやってしまうと、とんでもなく低劣なことを書いてしまうに違いない」との結論に至りました。

 というわけで、今回は「建国記念の日」制定に関する事実を2,3。
 ①学界が2月11日とすることに反対していたこと。
 ②考古学者でもあられた三笠宮(崇仁親王)殿下がそれ(学会の意向)を支持され、「日の決定は時期尚早」、つまり有名無実、永久に制定しない、となるところだった。
 ③田中博士を編集者として「神武天皇紀元論ー紀元節の正しい見方ー」の出版が為され、ここから流れが変わってきた。

 もう一つ。
 「建国の日(建国記念日)」といえば、歴史事実としての年月日を指す。そうなると、明らかになるまで祝日は設けられない。しかし、法律の示すところは「建国記念の日」であるから、最もふさわしい記念日を定めれば良い。
(記念の日は事実と直接の関係はなくてもいいでしょう?)
 これは、自・社・民社の共同提案の修正案。見事な「摺り合わせ」です。
 「の」一文字が入ったため、社会党は賛成した。(実は、社会党には次の一手があったんです。だから賛成した。)
                   
  2012年2月12日の日記
      部分再掲
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ②にも書きましたが、国民の大半は「紀元節」の復活に賛成だったようです。
 しかし、自民党と政界を二分するほどの大勢力だった社会党は当然のこと、他の政党も「紀元節」という名称では頷きません。
 戦前の国家体制を無条件に受け入れることになる、それでは新生日本の意思表示にはならない、というわけです。

 それならば、という事で実を取る。「建国記念日」でいこう、となったのですが、これまで書いてきたとおり、「建国記念日」ということになると、それは「紀元節」とは違った意味で採ろうとする。それが各政党の、それなりに一理ある制定候補日でした。
 しかし、それでは「紀元節」という言葉に惹起される国体(國體)への思いも、歴史への思いも全て捨て去られてしまう。「紀元節」という名称への抵抗が大きい中、どうしても譲れないのが日付、2月11日だった、というわけです。

 
 
 
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