今月は水彩画作品と並行して木版画作品を制作していた。テーマは『フェニックス(不死鳥)』である。東西世界に様々な姿や名前で登場する伝説の鳥だ。ストラヴィンスキーのバレエ音楽「火の鳥」をBGMにかけながら集中して版木を彫っていた。
絵画と版画の作品を車の両輪のように制作し始めて随分時間が経った。よく受ける質問は「どちらが難しいか」あるいは「どちらを制作している時が楽しいか」というものだが、うまく答えようがなく「それぞれ難しさが違うし、それぞれ楽しさも違う」と、いつも曖昧な回答しかできないでいる。ただ近頃思うことは年齢のせいか版画の摺りの仕事がしんどく感じるようになってきた。僕の版画の師匠はやはりどちらも制作していたが、僕よりも少し若い年齢の時、弟子たちの前でこぼしていたことがあった。「…近頃どうも版画の摺りがつらく面倒に感じるようになってねぇ…版画の制作というのは摺りの作業がおっくうになりだすとダメだねぇ」。
誰が何時ごろから言い出したのだろう「創作的な版画作品は自画、自刻、自摺り、が最も価値があるのだ」と。この価値観がその後の版画家の首を絞めるようになったのではないだろうか。確かに木版画にせよ銅版画にせよ「彫り」のプロセスというのは絵画で言うところの「描く」ことに近いことなので作家自らが行うにしても摺りというのは完全に作業であり労働なのだ。版画家という人で摺りが好きな人はまずいない。できれば専門の摺り師にまかせたいところである。元々、19世紀の頃まで日本の浮世絵版画にしても西洋の版画入り挿画本にしても絵師、彫り師、摺り師と完全分業で成立していた世界なのだが…。だいたいこの時代までは「限定部数」などというものもなかった。人気があれば版が摩耗するまで摺り続けていたのである。せめて摺りの作業だけでも解放されれば、どれだけ他の作品を作る時間が自由になることだろうか。
と、いまさら僕が愚痴のようなことを言ってみてもしょうがない。体力が続く限り労働はしなければならない。黒1色の作品だが薄口の和紙に摺りあげた。これからパネル貼りして部分的に手彩色を加えて完成品となる。仕上がった作品は今秋の個展会場でご高覧ください。画像はトップが摺りあがって乾燥させている木版画作品。下が摺り場のカット2点。