逆風に抗して Against the wind,♪ we are running against the wind.♪
ここではないどこかへ。モモンガーの旅
2018年に横浜から信州にUターン
自転車と日々の生活を
綴ります。
 



マウイ島のラハイナの町がほぼ全焼し、既に百人以上の死亡が確認され、1000人以上の所在が不明だと言う。ラハイナと言えば最後のリゾート?、Last Resort?最後の最後の場所かもしれないとイーグルスが歌った町だ。

日本では超明るくてキャッチーに南カリフォルニアを歌ったアルバムとして有名なHotel Carifornia の最後を飾る曲、Last Resort、最後のリゾート、最後の最後の場所。その候補地かもしれないと歌われたラハイナ、いつかは行って見たいと思っていたハワイ王朝の首都だった町だ。
Lahaina on fire, Massive wildfires in Hawaii …Hawaii wildfires:

イーグルスの The Last Resort はこんな風に始まる。♪ She came from Providence, the one in Rhode Island.  Where the old world shadows hang heavy in the air. ♬ 「旧世界の影が重くのしかかる、プロビデンス、ロードアイランドから、彼女は分水嶺を越えて、カリフォルニアにやって来た。」と言うので、4年前はるばるプロビデンスに行ったのは2019-6/1のこと。プロビデンスでは200年前の衣装のご婦人方の前でけん玉を楽しんだ。


今を遡ること40年ほど前、彼女が落ち着いた先、南カリフォルニアやイーグルスに憧れ、私もLAカウンティの最北端のモハベ砂漠での仕事をゲットした。3年間発電所建設現場で数十人の米国人と一緒に働き、自分が手掛けて日本や韓国で作った水車が発電するまでを見届けることができた。



その間、GMAT等の受験勉強をする時間と土地勘が出来ていたのを幸いに、数ヶ所のMBAプログラムに応募、4勝2敗(2敗はHとS大)で入学許可を貰った。普通は上司の覚えが目出度い20歳台の優等生が推薦を受けて留学する。会社の覚えが悪かった30歳台の私であったが、もう入学許可があると言うのを錦の御旗に、会社の留学制度を使って1年半でUCLAを卒業、足かけ5年の間ロスアンゼルスで暮らすことができた。



歌は続く、♪ Then the chilly winds blew down Across the desert.  Through the canyons of the coast To the Malibu, Where the pretty people play Hungry for power ♪「そこでは人々は微笑み合い、バーではやぁ、そっちはどうだい?LAはパラダイスだぜ」と笑いあっている。「でも冷たい風が砂漠から吹き降ろし、谷を抜けてマリブ吹き抜ける頃には、ハイソな人々は権力と金を求め争いあっている。」(前半住んでいたのはモハベ砂漠とマリブの中間にあるCanyon Country と言う町だった)

「そんなLAが偽物のパラダイスだと思うなら、帆を上げて、ラハイナへでも逃げ出すが良い。でもそこだって、教会牧師がイエスが来たれりと白人支配を広めた場所なんだ。」

♪ You can leave it all behind, Sail to Lahaina
♪ Just like the missionaries did, So many years ago
♪ They even brought a neon sign, "Jesus is coming"
♪ Brought the white man's burden down, Brought the white man's reign



うぅん、でも大火の前のラハイナ、古い町並みの残るLast Resort 最後の最後の場所で数日間を過ごしてみたかったなぁ。

Eagles - The Last Resort - (Paradise) - "The Last Resort" lyrics on screen & description

♪ Who will provide the grand design? What is yours and what is mine?
♪ 'Cause there is no more new frontier.  We have got to make it here

歌は最後に、「世の中の体制は誰が決めているんだ? あんたの所有物と俺の所有物は何だい?もう世界に new frontier なんてない、そいつは我々がここで作り出してそれをLast Resortにするしか無い。」と終わっているのだが、新たな体制は横に置いとくとして、私にはLast Resortを作り出すことができたのだろうか???

 



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今日のスーパーボールの中継を何気に見ていた。バッカニアーズ不利との事前の予想を覆す、QBブレディーの凄さには見とれてしまったが、すごい違和感があったのが、このスタジアムを埋め尽くす観客。マスクはしているとは言え、大騒ぎ、大歓声だ。


マッチョな米国人はやはりコロナ禍など気にしていない奴が圧倒的に多いのだろう。まだあきらめず、トランプ支持を続ける人々が居るのもうなずける。



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海外旅行の際の連絡方法、スマホの利用方法が悩ましい。月1万円ちかく使っている方や会社支給のスマホなら気にせず、そのまま海外ローミングで、後で数万円請求書が来ても心配ないのだろうが、何しろ毎月千三百円しか払っていない私には、海外ローミングのオプションすらない。
ただ、スマホはSIMフリースマホなので、SIMカードさえ手に入れば、格安で通信できる。

3年前のスペイン旅行の際は、2千円で、トラベルSIMという全欧州で使えるデーター通信のみ、通話は不可能のSIMを買った。どの道、緊急通話はラインで済むとの目論見だった。


ただこのSIM、データー容量が40MBと極小、LINEと緊急時の連絡用と心得ていた。

その次にNZ旅行では、現地で予約の電話を掛けたりすることも考え、NZのキャリアー、2DegreeのローカルSIMをNZ$19で到着当日購入した



今回の北米旅行でSIMをどうしようかAmazonで眺めて、次の2種類のSIMを出発前に買っておいた。

①1つ目のSIMは、カバー率の高いAT&Tのネットワークを使えて、大容量、50時間の米国内通話に1時間50分の日本への通話が可能という香港の通信会社が発行する、北米ローミング用のSIM、¥1450円である。
こやつの弱点はローミングなので、通信はすべて香港経由で、電話番号は香港の番号ということが引っかかった。

 

②インストール他が面倒だが、リスク分散で、2枚目は別の会社のSIMを選ぶことにした。こちらは中国の通信会社の米国子会社がMVNOとして、T-Mobileの回線を借りて運営しているSIM。米国の電話番号がもらえて、国内通話無制限で¥1285円のSIMである。


両方のSIMとも、SIMフリースマホの設定に関しある程度知識があれば、APNの設定などはマニュアル通りで30分ほどの作業で開通する。また②の方は、事前に日本でPCから接続設定しておき、到着直ちに開通したので、到着PickUpのSupperShuttleの運転手とすぐ繋がり嬉しかった。

①はデーター容量も大きく、かつAT&Tの回線だったので、何処でも繋がる安心感があった。おもに私のスマホに入れ、グーグルマップや情報検索に使用。
②は連れ合いのスマホに入れて使用。何といっても米国の電話番号がもらえたのが良かった。これだとレストランの予約を入れたりする時、相手が返答などで国際電話を掛けなくてよいし、番号で警戒されることもなかった。

また①に比べると②の方が香港を経由しない分、音質が良く、通話も無制限であったので、レンタカー事故の際には、②が大いに役立った。ただ、番号が使いまわしなので、①は香港から、②は米国内から間違い電話(特に借金の督促)が数回掛かってきたのには閉口したが。

私的には、①もそれなりに良い点もあるが、もし日本への連絡がLINEで可能で、北米の都市部のみでの使用だったら少しお安い②をお薦めかな?と言っても、こちらは今は売っていないようだが、似たSIMはありそう。

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 NH-1便でワシントン・ダレス国際空港から帰国。2ヶ月前に予約した時、行きはうまいこと、非常口後の出入りしやすい席(下図の赤い所)が取れていたのだが、



帰りのエコノミーはほぼ売り切れていて、通路側の席が取れず、真中の席しか残っていなかった。旅行前にANAのアップグレード入札の案内が来ていたので、帰国便のみ最低入札額を5千円上回る、2万5千円で札を入れて置いた。



ラッキーにもアップグレードが通り、プレミアムエコノミーで帰ってくることができた。毎日宿が変わる長い米国旅行の後で、席が広く、レッグサポートが上げられて足が伸ばせるプレミアムエコノミーはそれなりに快適でプラス5万円の価値はあった。


18日間の疲れもあるものの、足を伸ばして眠ることができ、元気に成田に降り立つことができた。さて、次の課題はトラベラーズチェック(T/C)の換金。海外旅行の際は、ほぼ使わないが、万が一のバックアップに10数年前に発行されたトラベラーズチェックをいつもスーツケースの底に入れていた。前回の旅行の際、免税店でTCを使おうとしたら断られた時はあまり気にもしなかったのだが、ここ数年、T/Cなるものは急速に使えなくなっていることに初めて気が付いた。ネットで調べると、空港の銀行の両替コーナーでも、扱わない所が大部分になっているらしい。ましてや、地方の銀行なんかでは換金不可能だ。なので、成田に降り立った時しかチャンスが無い。



成田で数ヶ所聞いたり、SIM他を米国設定から日本設定に変更してネットで調べた結果、発行元の三井住友信託銀行(シティーバンク日本を買収したんだったね)なら換金可能とわかり、窓口へ。でも、窓口の若い人はまごまごするばかり。ベテラン行員が後ろから出てきて、PCで発行番号etcを調べて、「ああ、これは当行で換金可能です」のご返答。待つこと15分ほど、何とか持っていた米ドルと日本円のTC15万円分を換金できた。
長野県への乗り合いタクシーの集合時間にも滑り込みセーフで、無事に帰ってこれた、長い一日?二日?だった。
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東海岸旅行の最後はの日は日曜日。甥夫妻も5年の駐在の間に、そこら中旅行してあるが、灯台下暗しでご近所のゲティスバーグは行ったことが無いと言うので、一緒に観光して回ることにした。

その前に甥のパートナーが学位を目指して勉強しているジョンズ・ホプキンス大学へ。医療関係者なら誰でも知っている、世界最先端のジョンス・ホプキンス大学病院。


その横に公衆衛生大学院がある。



バルチモアのダウンタウンにあるので、キャンパスは狭いが校舎や設備はブルームバーグ氏の寄付により、最新鋭の設備になっている。


続いて、郊外にあるジョンズ・ホプキンス大学のキャンパスへ。ここは医療関係以外の学部のキャンパス。


市内の公衆衛生大学院と比べると、広いこと、広いこと。


中心になる塔(キューポラ)がそこかしこにある。


卒業式も終わり、日曜日ということもあり、この広いキャンパスにひと気が無い。

続いて1時間半ほどドライブして、南北戦争の雌雄を決した激戦地、ゲティスバーグへ。




まず博物館で、奴隷解放、南北戦争の歴史を振り返り、それから、ゲティスバーグの戦闘とその後の歴史を見ていく。単発銃だった独立戦争の時より武器が進化し、連発銃になっている。



戦闘の推移を北軍陣地から眺めた360度パノラマが圧巻。南軍は北軍をほぼ(300度くらい)包囲し、しかも、戦闘初期には優勢だったのに、セメタリーヒルに立てこもる北軍を攻めきれず、敗退している。戦力の分散と集中の違い、補給線の確保の差が現れたのか?



この戦闘の数ヶ月後、この地に設けられた国立戦没者墓地で、リンカーンがかの有名な、「人民の、人民による、人民のための政府は、決して滅びることが無い」演説を行った。演説はたったこれだけの短い演説だったらしい。



博物館だけでは持った得ないので、戦跡と墓地を見学しましょう。



国立戦没者墓地にて。州ごとにまとめられた墓地。墓名の刻まれたものもあるが、私の目についたのは、Unknown。



リンカーンさんは、
The brave men, living and dead, ---- The world will little note, nor long remember what we say here, but it can never forget what they did here.
と言っているが、無名戦士は忘れ去られ、リンカーンの演説だけが、世に残っている。

these dead shall not have died in vain - that this nation, under God, shall have a new birth of freedom - and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth. 
この演説の素晴らしさ、その影響力の強さを否定するものではない。私も初めてこれを読んだ若い頃はこれこそ民主主義の持つ強さを現している句だと思ったものだ。だがしかし、年を取ってから無名戦士の墓を見ると、個人の意志や使命感はともあれ、彼等は have died in vain に思えてしまうのであった。
 
と、色んな感慨が頭を巡る中、ワシントンに向け帰宅。夕食後、ダレス空港近くのベストウェスタンに送りと届けてもらって、米国最後の観光は終わり。

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東海岸ドライブ旅行も2週間を超えるとさすがに疲れてきた。今日の観光はアナポリス一ヶ所のみで、いよいよレンタカーを返却する日だ。フィラデルフィア~バルチモア~ワシントンDC回廊の混雑したハイウェイを避け、半島状のデラウェア州経由でアナポリスに寄り、ワシントンDCに帰る予定だ。

ウィルミントンまでは道路も混んだが、そこからは高速道路に車が少ない。しかも有料区間なのに、有人の料金ブースが無い。帰国後、クレジットカード請求が来て、高速代が  Toll Charges: $5.60で ETC使用代のようなConvenience Fee: $5.95 だと。なんかなぁ、ETC使用代の方が高いと言うか、高速代が安いというか。
観光案内所で話を聞くも、デラウェア州では半島先端まで行かないと観光する所も見つけられそうも無いので、海を渡り、メリーランド州のアナポリスに向かう。



アナポリスの観光案内所の駐車場は数時間駐車可能だったので、車を駐車して、歩きとシャトルバスで観光することに。まずは聖アン教会を見たあとで、メリーランド州議会へ。



緩い坂を降りて、シティードッグに着くと、先ほど見てきた聖アン教会と州議会堂が見える。ここが観光地の中心かな?


中国人のやっている日本食堂があったので、昼食にする。久しぶりのツナロールとカリフォルニアロール他。

 
アナポリスと言えば海軍兵学校を見学せねば。31年前に一緒にケーススタディーをやったJCはここの卒業だったが、今頃どうしているだろう。

 
かなり歩き回ったら、やはり脚に来た。帰りはシャトルバスを捕まえ、駐車場に戻り、ワシントンに向かう。
ひとまずワシントン郊外、ノースベセスダのホテルにチェックインし、車内の荷物をすべて部屋にぶち込む。



平日なら、近所のハーツ営業所に車を返しておしまいなのだが、土曜日で午後は空港しか営業所が開いていない。デラウェアのガラガラの高速から一転、ワシントンの高速は4車線一杯だ。車の間を縫って、レーガンナショナル空港に向かう。


空港でワシントン在住の甥夫妻に拾ってもらって、彼の勤務先のIMFへ。今回東海岸旅行を計画したのは、5年前、彼がワシントンに赴任する時、一度は遊びに行くと約束していたから。来月には彼が帰任するので、やっと遊びに来れたわけなのだ。


土曜日なので、誰も居ないIMFの巨大オフィスを探検して回る。総会の開かれる会議室は改装中で、今は仮のこの部屋でIMFの全体会議とか、G20蔵相、国立銀行総裁会議などをやるのだとか。仮とは言え、部屋の後側には同時通訳室がある。


執務室を覗いて見ると、広い個室だ。日本に帰ったら、机を並べて、大変だろうね。

 
ノースベセスダに戻り、甥夫妻のアパートを見学後、夕食へ。
あまり観光しなかった一日。楽しかった旅行ももうすぐ終わり。走った記録の一部はこんな感じ。

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入社5年目の1978年の冬、国内で初めての高放射線環境/原子炉圧力容器内に入っての炉心構造物修理作業を終えた所で、原子力から水力に社内転職した。原子力の危険性とか、原子力技術に先が無いとか難しいことを考えた訳では無く、大きなシステムの中の一部分しか担当できないこととか、国内に仕事が限定されてしまうことのつまらなさから、1年後にはオーストラリアに長期駐在できるというエサにつられての社内転職だった。まあ、その時丁度公開された「チャイナシンドローム」に少しは影響を受けたかもしれないが。
所がその半年後にThree Mile Island原発(TMI)#2が炉心溶融を起こしてしまい、いろいろ悩んだ転職が正解だと思えるようになった。同期からの5年の遅れを取り戻し、一人でオーストラリアに行っても困らないよう、必死に勉強したのも良い思い出だ。

昨日ハーシーに宿を取ったのは、40年後のTMI原発を見てみようという野次馬根性からだった。
発電所入口でTMIを眺める。冷却塔から盛んに水蒸気が出ているので、#1は動いているようだ。


で、入口で止まっている私の車を追い抜いて、数台の車が構内に入っていく。守衛が居たり、ゲートがあるわけでは無いので、後に続いて、緊張しながらもサスケハナ川に掛かる橋を渡る。



すると、そこは原発の敷地の中、従業員用の駐車場であった。150m位先に見える原子炉建屋、タービン建屋まで歩ける場所だ。


ここまで入れるのか? 本当に良いのか? 銃を持った保安要員が走ってこないか? という不安を抑えて、駐車場を一周し、そそくさと車内から写真撮影して、TMI原発敷地内から離れたのであった。

さて、この後は、TMIからさほど離れていないアーミッシュの村へ。電気や自動車という近代の発明を拒否して、18世紀のままの生活している人々の村だ。観光用のステージコーチに乗り、Intercource(何てセクシーな名前なんだ!)の村を走る。


ノンビリと走る馬車だけかと思ったら、車は拒否しても、スピード狂はいるみたいで、牧場の中で、二輪馬車を飛ばしている若いアーミッシュも居るみたい。



文明を拒否しているとは言っても、農業収入に観光収入も沢山あるようで、家はピッカピカ。ドライブウェイに車が無いのと、電線が引き込まれていないだけの差かもしれない。


あ、もう一つ発見。ギアとチェーンも拒否しているので、自転車がなく、キックボードのような、脚蹴り2輪車が近所への足。でもなぁ、この車軸にはきっとボールベアリングが入っている。


村外からの車ともすれ違うが、一家でどこかに向かう家族の馬車とすれ違う。


一家が木陰で談笑しながら、小物や廃品のガレージセールをやっていたので、記念に刺しゅう付き枕カバーをゲット。


次のアーミッシュの村、Paradiseに向かうと、Covered Bridgeがあった。スタッドレスタイヤの無い、馬車で、雪の凍った橋は危ないものね。


21世紀から18世紀へのタイムスリップはこの位にして、今日の3つ目の観光地、Winterthur Gardenへ向かいましょう。ここはダンロップ家のお屋敷と広大な庭園が公園になっている場所だ。ガイドツアーバスに乗って、1時間ほど、庭園を周回する。2、3週間前なら、ツツジが満開で綺麗だったようだが、だいぶ南に来たので、もうツツジはほぼ終わり。


自動車の出現の前に作られた屋敷なので、敷地の中に、自家用の鉄道駅があったのだとか。


そこかしこに小さな(と言っても、巨大な)テーマの決まった秘密の花園風の庭があるようだ。


庭を回った後は、館も見学しなければ。増改築で複雑に続く本館。


内部は中世のお城風から、アールデコまで、よりどりみどり。


超巨大なサンルーム。木彫の鷲が羽根を広げている。

 

日常生活エリアは、豪華ではあるものの、華美ではない落ち着きがある。


でも、こんなダイニングで食事をしても、私には味が解からないだろうね。


再度外に出て、本館周辺の庭を歩く。


しかし、今日も長い距離を歩きすぎて、右脚が痛い。この辺りで、車に戻りましょう。


宿にチェックイン後、周りをドライブ。現役時代に来たことはなかったのだが、火力事業の東海岸の事務所が近くだったので、寄ってみる。グーグルマップにはあったのだが、最近、会社が左前なので、事務所は閉鎖したみたいで、看板が無くなっていた。


美味しい夕飯を食べて、

 

モーテルに戻れば、一面の夕焼け。明日は晴れそうだ。


原発も嫌だが、アーミッシュのように電気無しで生活するのも嫌だ。もちろん、ダンロップ一族のように、広大な館に住みたいとも思わないが、つつましく、あまり環境に悪さをしないように、生活したいと思った一日。走ったのは、こんな場所。

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東海岸旅行も2週間が過ぎ、そろそろ終盤へ。
今日は、フィラデルフィアの周縁で、それほど有名ではない観光地巡り、運河、ベスレヘムとハーシー巡りを計画した。デラウェア川を渡って、ニュージャージー州からペンシルバニア州へ。


デラウェア川の右岸脇に運河が作られ、馬引き船で、多量の物資輸送がされていた。欧州では長い期間使われていた運河も、鉄道の登場で、米国ではほんの数十年しか使われず、欧州のように観光地になることもなく放棄されている。


閘門の開け閉めは手動だったようで、まだ歯車機構が残っている。


川沿いの段丘斜面にブドウ畑、その内にワイナリーの看板。長野県のブドウにデラウェアという品種もあるので、ここは寄って行きましょう。


甘い白ワインを買って、さらに運河を辿る。やがて、運河から離れ、なだらかなリーハイバレーの丘陵地帯へ。次はクリスマスやサンタで有名なベスレヘムという町。モラビア出身者が建設した教会中心のメルヘンチックな町に行って見たいとの連れ合いのリクエスト。

で、丘を越えると突然地平線上に錆びた鉄の塊群が見えてくる。不覚にも気が付かなかったのだが、そう、ここはかっての米国第二位ベスレヘムスチールの本拠地だったんだ。


さらに近ずくと巨大な空気タンクが錆びたまま佇立している。



そして、その向こうには、鉄鉱石、コークスなどを炉頂まで運ぶローダーとさらに聳える高炉。


ロス近郊のカイザースチールの製鉄所跡は80年代に更地にされたので、見た時のインパクトはないが、ここはかって何万トンもの鉄を作っていた施設の一部がそのまま残っていて、圧倒される光景だ。
鍛造工場と思われるビルの横庭には、戦艦の大砲を作った、その当時は世界最大だったと思われる数千トン級の鍛造プレス。


かっては鍛造工場だったと思われる背の高いビル。ここで、戦艦の大砲や発電機、タービン軸が作られていたのだろうが、今はコーチの旗。


そう、工場の一部はアウトレットモールとカジノになっていて、中国人と米国人がショッピングとギャンブルを楽しんでいた。


う~ぅん、栄枯盛衰とは言え、今のベスレヘムに工場労働者の影はない。そう言えばビリージョエルが工場衰退を歌ったアレンタウンはこんな風に始まっていた。
♬ Well we’re living here in Allentown 
♬ And they’re closing all the factories down Out in Bethlehem 

あっ、感傷にばかり浸ってはいられない。最初の目的地、旧市街のクリスマスの町へ行かねば。でも、あるのは古い教会と、旅行者目当てのクリスマス用品のお店ばかり。


都合の良い駐車場もないので、さらに西進して、チョコレートの町、ハーシーに行きましょう。
ここも、かっての世界一のチョコレート工場は煙突が残るのみ。



ここで、チョコを作るより、より賃金の安い場所でチョコは作った方が儲かる。工場は縮小され、チョコ主題のテーマパークに変身していた。ハーシーチョコのグッズを売る売店はすごい人だかり。


工場見学はできないので、ディズニーランド風のライドで、牛乳、カカオからハーシーバーができるまでを見せてくれる。



ライドの後には、無料チョコを貰って、今日はおしまい。

しかし、もう、米国では物は作らなくなっていることを実感。これでは中産階級、工場労働者は消え行くばかりだ。ビリー・ジョエルのAllentownはこんな風に終わる。
♬ But they've taken all the coal from the ground
♬ And the union people crawled away
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
♬ And it's hard to keep a good man down. 
♬ But I won't be getting up today. And we're living here in Allentown

と走ったのは、こんなコース。フィラデルフィア外縁を反時計回りに走った一日。

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昨日、ウッドストックフェスティバル会場へ向かう途中、岩に乗り上げてオイルパンを割ってしまった現代エラントラはオーバニーに引き取られていったので、今朝は代わりの車を確保しなければならない。朝食を早めに済ませ、7時に人生初のウーバーを呼び、ハーツの営業所が開く7:30少し前にkingstonのハーツに到着。開門と同時にたった一人の営業所員を捕まえ、昨日の顛末を説明し、代車の依頼をする。
「洗車と掃除が終わってないが、車は有るよ!」とのこと。良かった! で、淡々と手続きを進め、内部の掃除だけしてもらって、車を受け取れることになった。(でも、その間に、来客一人、そして、電話でのレンタル申し込みもありで、あさイチ行動は正解!!)
借りられたのは、KIAのSoulというエラントラより少し小さい車だが、文句は言うまい。


ハドソン川を渡って、フランクリン・D・ルーズベルト邸/ミュージアムへ。


まずは、ミュージアムでFDRの業績をたどっていきましょう。朝一番だったので、80歳くらいのボランティアーのおじさん(名前を忘れてしまった)に45分ずっと説明してもらう。
大統領で3頭文字で呼ばれるのは、FDR、JFK、LBJ位か? それほど有名なFDRだが、このミュージアムはFDRを崇拝の対象とするのではなく、彼の業績の良い面も悪い面も公平に展示することだとおっしゃる。


幼少期に小児麻痺をわずらわったFDR。車椅子が手放せなかったらしい。



FDRの有名な三期目の演説、4つの自由に基づく、ノーマンロックウェルのイラストがここにもありました。



ただ、New Deal 政策にも関わらず、雇用や景気が回復したのは、第二次大戦のせいだったのかもしれない。



FDRの負の側面として、大統領令9066号による日系人強制収容も展示されていた。



で、ボランティアのおじさんに、FDRは日本の真珠湾攻撃を知っていたのではないか?米国民が欧州での戦いに参加することに躊躇しているムードを変える為に、奇襲を許したのでは?と癖玉を投げてみた。いや、そんなことはあり得ない、それは単なる陰謀説、FDRは海軍を愛しており、知っていればアリゾナをはじめとする戦闘艦が沈められるのを避ける行動をとったはずだ。との返答。まあ、私もFDRが日本の攻撃を知っていたとしても、真珠湾の事態は想像しなかったろうと思うのだが。

あ、でも、ここで、FDRの弁護を。展示を見るまで知らなかったがFDRの妻で代理演説者、エレノアがヒラリバーの強制収容所を訪問しているんですね。

続いて、FDR邸を見学。


邸宅の脇には、夫妻のお墓。


続いて、お隣にあるバンダービルド邸へ。ここは30年前にチラッと見たことがあるし、この次、ロックフェラー邸を予定していたので、ドライブスルーする。


で1時間半ほどドライブして、ロックフェラー邸カイカットへ。だが、しかし、今日は公開日ではないとのこと。せっかく来たのに、週4日しか開放していないんだ。


NYはもうすぐそこなのだが、車でNYに行くのは、キチガイざた。ハドソン川を又わたって、ニュージャージ側へ。


小学生の頃の私のヒーロー、トーマス・エジソンの研究所と発明工場をオレンジに訪ねた。


記念撮影をして。



当時のままに保存されている、エジソンの執務室へ。


この、アイディアや書きかけのメモ、素材、、、、が詰まった、この机で数々の発明がなされたんだ。


事務所の隣には、何でも要求のものを作ってしまう、工作室。電気モーターができたばかりなので、1台のモーターからベルト駆動で多数の工作機械を回している。



この他にも、化学実験室とか、エジソンを支えた付帯設備がすごい。
そしてもちろん、発明品の数々。タイプの違う試作電球。



電気アイロン。東芝マークの基になったTの伸びた文字。


そして、蝋管蓄音機。再生を実演してもらったが、電気なしで、力学的増幅のみで、ここまで大きな音が出たことに驚かされた。



丘の上のエジソンの家にも行きたかったのだが、ここも現在改修中で見学できず。時間も押してきたので、高校生の頃の憧れ、アインシュタインが研究をしていた、プリンストン大学へ。


他のアイビーリーグの大学と異なり、中心になる大きな塔のある建物が見つからない。ただ、広大な敷地の周辺部分に、多くの趣味の良い、邸宅が並んでいる。多分こう言った所にアインシュタインだとか、かの村上春樹がVisiting Scholar として住んでいたのかしら?


昨日見られなかった所も訪れたので、今日も300数十km走ることになった。
走ったのはこんな道。

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ウッドストックフェスティバル50周年の今年、ウッドストックの町から2時間かかると言われても、何も無いよと言われても、やはりフェスティバルの現場に行って見たい。はやる心を抑えきれず、ガソリン補給後、町(下図の黄緑色)を出た。後知恵で考えると、もうすぐランチ時間なのだから、ウッドストックの町で昼食を取っていれば、大惨事は避けられたのだが、、、。


Rockの聖地、ウッドストックフェスティバル会場を目指して、湖畔の平な道から、急な山道を登っていく。車は少ないが、前に白い車が見え隠れしているのを追って走る。登りが終わって、下りに入った途端、道路の真ん中に茶色い物体。動物かとブレーキを掛けたが、間に合わず。茶色の物体は岩(Big Rock)だった。車体の下に入った岩で、車をバウンドさせ、通過する。 やっちまったと、車を停め、タイヤの横から車体下を眺めると、油が漏れ始めている。携帯は? 山の中でアンテナマークは立た無い。マズイ、マズイ。パニックになりそうな表情を連れ合いに見せないようにして、エンジンに負担を掛けず、電波の届く所まで、坂を下ろう。と走りだして、数百メーター走ったろうか? 前を走っていた白い車もエンジンフードを開けて、停車しているではないか。(地図の黄色の地点)
慌てて、白のジープチェロキーの前に車を回したところで、Pポジションにしたら、ウォーニングランプ点灯、エンジンが止まってしまった。しかし、少なくとも、自分たち二人のみでは無くなったので、パニック状態は少し収まる。

先行していたチェロキーも岩に乗り上げたがものの、四駆で車高が高く、エンジンに異常は無さそう。ただ駆動系から異音がするとのこと。我々の車を押してもらい、路肩に停めてもらう。彼らは携帯電話の通じる所まで戻り、さらに自動車修理工場を見つけて、車をチェックしてもらうつもりとのこと。「そっちの車は動かないのだから、貴重品だけ持って、チェロキーに乗って町に戻ろう。」となった。



で、戻った先が上の地図の水色地点、Walt’s Auto。チェロキーの前で、車を眺める、修理工場のWalter Grabowskiさん、そして、真中の二人が私たちを助けてくれたRichard と John Repetti兄弟。 



車をリフトで上げてみると、アルミのアンダーカバー兼前トランスアクスル支え?に割れが入っている。



前を走っていた車がジープチェロキーだったので、エンジンが壊れずに人里まで帰ってこれたが、もし単独事故だったら、麓の携帯が通じる場所まで、10km以上歩かねばならなかった所だった。

ハーツに電話して事情を話すと、先ず事故報告書を警察から取れとのたまう。参ったなと思っていたら、Repetti兄弟も保険求償の為、事故報告書必要なので、警察を呼んだという。



ほどなく、所轄のOlive Policeがやってくる。私の車はここには無いので、ちょっと心配したが、パトカーの中でチャッチャと報告書を作ってくれる。


で、できた簡易報告書がこれ。正式報告書は上司の承認後、ウェブに載るのだそうだ。


警察が事故証明を作っている間、ウッドストックフェスティバルの会場目指して走っていたんだという話をしたら、なんと、助けてくれた、John Repettiさん、50年前、ベトナム戦争から無事に帰って2ヶ月後、退役して次の仕事を探している時、ウッドストックの話を聞き、3日間のコンサートに参加したのだそうだ。今回ウッドストックの現場には行けなかったが、事故のお陰で生き証人に会えて光栄だと冗談を言いながら自分を納得させたのであった。
よく見ると、アンダーアーマーの同じ色のフリースを着ている、John Repettiさんと一緒に記念撮影。


事故が11:30で、報告書ができたのが13:30。思ったより早く手続きが進んでいく。この分なら、レンタカーの交換もスムーズに行くと期待したのが、間違いのもと。

助けてくれたRepetti兄弟に散々お礼を言い、ジープのディーラーへと向かう、彼等を見送る。そしてハーツに再度連絡し、事故証明書はできたから、レッカーを派遣してと頼む。

で、待つこと2時間、15:30にAAAのマークを付けた、レッカーが来た。よし是で貴重品を持って、次の段階だと思ったのだが、、、


な、なんと、このレッカー車、車のある位置を聞いたら、そこは山の向こうで、我社の管轄外とか言って、我々を残して帰ってしまう。
ハーツの事故係につながりにくい電話を何度もして、レッカーが帰ってしまったが、一体どういうことだ、我々を見捨てるつもりか? 、、、、、
電波の届きが悪く、切れ切れで要領を得ない応答が30分ほど続いただろうか?突然ハーツの事故係から、事故車の傍らに借りた人間が居ないのがレッカー車が帰った原因だ、これから再度レッカー車を手配するので、レッカー代金$800必要だとのたまう。
携帯の繋がらない山の中で、レッカー車を待てと言うのか? いったいハーツの事故対応はどうなっているのか? こういう時の常套句、上司を電話に出してくれとしつこく要求するも、それには答えず。携帯の電池は無くなってくるし、、、、で、一旦電話を切る。

連れ合いからせっつかれ、もう少しで$800にOKしそうになったが、冷静になって考え直した。そうだ、JAFカードを持っている! ハーツでなく、AAAに電話して、レッカーが一度来たけど、ハーツとの契約か何かで問題があるようで、帰ってしまったが、私はJAFの会員、米国ではAAAのレッカーサービスを受ける権利があるはずだ。海外クラブコードは、、、。会員番号はXXX。ハーツと話しをして、壊れた車を引き取りに来てくれと申し込むと、何回かの堂々巡りを経た後、ようやくAAAがレッカーをだしてくれることになった。
その後、ボイスメールで、レッカーが出発しましたというメッセージが入るも、1時間待ても、2時間待ってもレッカーが来ない。

さすがに、この時は、困った顔をしていたら、Walt's Auto の Grabowskiさんが、タダと言う訳には行かないが、規定の距離料金なら$250位だから、私のレッカーで車を回収して、近所のKingstonにあるハーツまで運ぼう。Kingstonで宿を取り、明日、代車を入手しなさいとアドバイスされる。修理工場も閉める時間だし、暗くなり始めたので、仕方ない、そうしようと、Grabowskiさんのレッカーに乗って、山を目指した。
で、数分走っただろうか?あれ、青い現代車を乗せたレッカーがこちらに向かってくる。慌ててUターン。工場に戻ると、私の車がAAAの別のレッカーの上に載っている。


レッカーの運転手に聞くと、車のキーが無いので、山の中で載せるのに苦労したとのこと。だから、キーは私が持っているので、Walt's Autoに迎えに来いと、電話で言ったのに、、、、。で、どこまで車を持って行くのか聞くと、オーバニー空港のハーツデポだとのたまう。(もう地元のハーツは営業終了、ニューアークかオーバニー空港しか開いていない)そこまでついて行って、代車を受領して、またこちらに戻ったら、深夜を越えてしまう。さすがに、その体力、気力が無い。ハーツに電話して、キングストンで代車を用意してと頼むも、コンピュータ上ではキングストンに代車となりそうな車はある。ただ営業所はもう閉まっているので、確約はできない、、、、。

爆発しそうになる私を見かねて、Grabowskiさんが、俺が送って行ってやるから、Kingstonに宿を取り、明日朝、ハーツの営業所に行きな。あそこなら、ホテル、ハーツ営業所、レストランは2マイル圏内に全てあると助言してくれる。レンタカーからすべての荷物を取り出し、Grabowskiさんの車で、Kingstonに着いたのは夜の8時過ぎ。彼へのお礼、別の宿を取ったので宿のキャンセル代、、、は掛かったが、大Rockに邪魔されてRockの聖地は中断となった一日は暮れて行ったのだった。

Richard と John Repetti兄弟、そしてWalter Grabowskiさんという、本当に親切な米国人に助けられ、大惨事から脱出した一日だった。(あっ、Graboskiさんは18歳でポーランドから逃げてきたから半分のみ米国人か?)

一部走行軌跡は無いが、今日の走行記録は下記をダブルクリック。

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昨日はクラッシク音楽の聖地の一つタングルウッドを訪れたので、今日はロックの聖地の一つウッドストックを訪問し、最後にFDルーズベルト邸とバンダービルド邸まで行ければという計画だった。
脚の痛みも大夫収まり、ロキソニンなしでも動けるようになった。スプリングウォーターB&Bの朝食。出来立てのスコーンとか、モーテルの朝食と違い楽しく頂けた。

 

天気も良いし、昨日泊まった2階の部屋を後にさあ出発。


ハドソン川の支流を渡って、さらに高速を走り、先ずは聖地その1、ウッドストック近くのディランとバンドが合宿所兼録音スタジオにしていたビッグピンクを探し出しましょう。


高速を降り、ナビの言う通り、走っていたら、車もすれ違えないような、山の中の砂利道へ。本当にこの道で良いのかと不安が募る頃、


右を見ればジャケット写真で見慣れた建物が。知っている人は知っているビッグピンク。


The Bandの Music from Big Pink のジャケット写真にあるピンク色の建物の通称がビックピンク。


周りの木が茂ったのを除き、建物の雰囲気は50年前と変わっていない。
ここの地下室でボブ・ディランのBasement Tapesが録音されたんだ。学生の頃、ディランフリークが海賊版が出たと言って、買ってきたLPを聞いたっけ。その後出た正規版がこれ。



ロックの聖地とは言っても、私のような酔狂な奴が時々来るだけなので、目印も表示も何もない。ひと気も全くない辺りを少し散歩すると、少し離れた林の中に、70年代ヒッピー文化を引きずるような、トレーラーハウスとガラクタ置き場があった。


ビックピンクはウッドストックの町から少し離れた所にあるので、町へと向かった。で、町に着いたのだが、何か違う気がする。


50年前の1969年8月にウッドストックフェスティバルが行われ、その時のフィルムに近くの町が写っていたが、本当に小さな町だった。でもこの町は随分大きい。記憶の底に、フェスティバル会場はウッドストックからすごく離れた場所だというのを40数年前に読んだ記憶もおぼろげながらある。
街角の人に、ウッドストックフェスティバルの会場はどこなんだ?と聞くと、ずっと遠い所、車で2時間弱かかる。それに行っても何もないから、この町で遊んで行ったらとのたまう。
あれ、まぁ、ここで、ぐずぐずしていると、日が暮れてしまうと、すぐさま走り出したのが、間違いの始まり。ゆっくりランチでも食べて出かければよかったのに、、、、

と、大惨事の顛末は長くなるので、次のエントリーで。

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昨日、タングルウッドの下見に訪れた時はもう閉門時間だった。ただプレシーズンではあるものの、日曜日なので、1つだけコンサートがあったらしい。


今日は月曜日、平日なのでタングルウッド自体は朝早くから開場しているのだが、シーズンは6月中旬から。コンサートなどはやっておらず、シーズンに向けての改修工事の追い込みの最中であった。

まず訪れたのは、シェッドと呼ばれる屋外コンサート会場。



20数年前訪れた時よりずっと屋根が広くなり、音響板なども設置されて大規模になっていた。セイジ・オザワ松本フェスティバルも、この数分の一の規模で良いから、屋外コンサート会場があると一般客や市民が楽しめると思うのだが、、、、日本では無理かなぁ、、、、


プレシーズンの早朝でだれも居ないと思ったら、所々に設けられた幾つかの小ホールでは、室内楽の練習などがやられていた。


以前来た時は無かった、小澤征爾ホール。


小規模なコンサートやオペラの上演に使われるのだろうか?桟敷席のある、オペラハウス的作りだ。


これを作ったのは、私の勤めていた東芝の競争相手の社長もした大賀さん。経営者としては毀誉褒貶のある人だが、軽井沢の大賀ホールと言い、ここと言い、後世に残る仕事をしている。


広いタングルウッドを痛い脚を引きずって歩けば、芝生の向こうに湖水が広がっている。こんな所でピクニックがてらコンサートを聴ければ、最高だね。


続いて訪れたのは、近くにある、ノーマン・ロックウェル美術館。



ナショナルギャラリーで古典芸術は数年分見たので、今度は極めてアメリカ的な、マスプロではあるものの、その中にキラリと光るもののある絵画/イラストへ。
これがロックウェルさん。


私の好きな、「家出少年」。 保護した警官がダイナーで昼飯をおごってやっている所。


これも有名な「言論の自由」。FDルーズベルトの4つの自由から題材を取っているのだが、下の欄の戦時公債を買いましょうは余計だなぁ。


復元したアトリエに行ったら、ボランティアのおばさんが、次から次へとロックウェルの逸話を話してくれる。


で、ロックウェルが住んでいたストックブリッジには寄ったのか?と聞かれる。いや未だだよと答えると、是非行きなさい、ロックウェルが描いた通りの町だからとのたまう。

 

お腹も空いてきたし、昼食に丁度良いと町に寄ってみた。まあ、痕跡はあるものの、だいぶ観光地化していたので、食事をして、小散歩のみ。



昼食後、高速に乗るも、方向を間違えてLeeに戻る方向へ。インターを降りたらプレミアム・アウトレットに捕まってしまい、散財。なんとか、次の目的地、NY州の州都、オーバニーに向かう。でも見たのは州議会堂を遠く眺めたのみ。


今日の宿泊地、サラトガへ向かうべく高速に乗ったのだが、NYの片田舎なのに渋滞している。20分後、その原因発見。2車線を使って、家の移動中。



予定より遅れて、サラトガ・スプリングスへ到着。ここを宿泊地に選んだのは、カーリー・サイモンのYou are so vain の歌詞、♬ Well I hear you went to Saratoga. And your horse, naturally, won. ♬が気になっていたから。 でもね、ここもまだプレシーズン。日本と違って、夏にならなきゃ競馬場は開かない。伝染病を嫌って、休場中の競馬場は柵の外から眺めるだけ。

なら、もう一つの名物、泉巡り。ここでもちょっとした目論見違い。避暑地でSpringsと来れば、温泉か?痛い脚を癒すPublic Bath でもあると良いなとおもったのだが、あるのはちょっと硫黄くさいが、冷たい飲泉のみ。


でも、少し場所を移動しただけで、苦い硫黄泉から、単純泉、そして、炭酸ガスがブクブク湧いている炭酸泉まで、色んな種類の飲泉を楽しむことができた。


温泉はダメだったが、今日泊まったB&Bも部屋は豪華。お風呂は猫脚の深いバスタブだったので、痛い脚を労われた。

 

今日走ったのは、マサチューセッツ州バークシャー地方からNY州の上部。どちらも都会のボストンやNYから離れた山の中の田舎。

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今日も300km近く走らなくてはいけない。今回のドライブ旅行のナビゲーションは縮尺大の概略の地図をガーミンで示しておき、詳細の道案内はスマホのグーグルマップで行う方式。スマホはすぐ取り外せるようにゴムバンドとベルクロで固定してある。
グーグルマップには前日調べた今日行きたい場所をSaveしてあるので、簡単にナビしてくれる。


昨日泊まったQuality Innの前庭には、ハイウェイからよく見えるように電車が置いてある。何か展示もしてあるのかと覗くと、何もなし。単なる目印らしい。


昨日間違えた、橋の分岐をニューヨーク方向へ。



今日の一番目の訪問先はブリッジポートという、何の変哲もない工業都市。米国の工場でブリッジポートと言うと、小型の縦型フライスを差す。


30数年前、このマシンのコピー機を中国から買って、米国でレトロフィット、NCを付けて売っている米国の工作機械会社のコンサルタント実習を数人の学生グループでやったことがあった。会社の重役に何回かインタビューし、市場調査を行い、事業計画を立てると言うプロジェクト。今でこそ中国で作るのは当たり前だが、文革が終わってようやく対外開放にむかっていた中国から機械を買ってくるなんて、トンデモない事業計画である。そんな話を実現し、商売にしている米国の会社があることに驚いたものだ。その原型機を作っていたのがブリッジポートマシン。その故郷、もはや痕跡も無いだろうけど、ブリッジポートが近くにあるというので、懐かしさから寄り道してみたもの。
中心街は荒れてはいるものの、ニューヨークに近いので、駅の周りは再開発されている。

 

ただ、かっては優秀な機械工が、まっとうにお金を稼ぎ、中流の生活をしていたと思われる、狭いけれど、小ぎれいだったと思われる住宅街は、半スラム化していた。

 

工場の廃墟や、荒れた事務所を眺めて、次の目的地、ハートフォードに向かう。
ハートフォードでまず見たのはマークトウェインの家。


内部は撮影禁止だったので、ブログには適さないが、非常に興味深いこった作りの家だ。
別館のマークトウェインの記念館の方にはいろんな遺品なども展示されていた。



マークトウェインの家の横にはアンクルトムの小屋を書いたストウ夫人の家がある。



こちらの家の見学はディスカッション方式で、説明者が見学者に色々質問しながら、ストウ夫人と奴隷制廃止運動に関して説明していく方式。
リンカーンが言った、「あぁ、こんな小さなあなたが、南北戦争を始めることになった本をお書きになった方か!」だとか、


マルコムXなどの「白人上流階級のストウになにが解かるんだよ。」、、、、まで、色々な人々の言葉や歴史が展示されている。

確かに、家の内部は、ニューイングランドの上流階級そのもの。


当時のアンクルトムの限界から現在の公民権->ダイバーシティーまでをカバーする展示で、これも心に残るツアーであった。


ニューハンプシャーからマサチューセッツのバークシャー地方に入り、高速道路を外れ、田舎の道を走ってみた。道は狭く、曲がりくねって緊張するが、これも楽しい数時間のドライブの後、今日の宿泊地、リーの町に到着。
5時頃、情報を求めて、タングルウッドまで足を延ばしてみたが、丁度門を閉める所だった。明日は朝から開場すると言うのが唯一得られた情報。

さて、今夜の宿はここ、シャンベリー・イン

 

1885年に建てられたカソリックの学校を改装して、宿にしたもの。
教室を一部屋にして、お風呂はジェットバスの豪華版。百年以上前の建物だが、アレクサが有ったり、TVもネット接続だったり、そして、何より広い。従業員は親切!(ランドリーは無いかと聞くと、たまった洗濯物を宿の洗濯機で洗わせてもらった)今回泊まった宿の中で、一押しだね。



夕飯は豪雨が降ってきたので、通りの向こうのエクアドル料理屋へ。串焼きにしたが、これも量が多くなく美味で当たりだった。


走った距離が長かったので、見学場所は少なかったが、楽しめた一日。

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イーグルスのホテルカリフォルニアのアルバム最後の意味深な曲、Last Resort の冒頭に
 ♪ She came from Providence, the one in Rhode Island.  ♬
 ♪ Where the old world shadows hang heavy in the air. ♬
と言う歌詞があり、全米で一番小さい州のRIに行って見たいと思っていた。
泊まったニューポートのあるロードス島(Rohde Island)?から本土に渡る橋。


観光案内に良い景色だと書かれていたのでコルト州立公園に寄ったのだが、朝霧の影響で遠くまで見通せない、残念。


プロビデンスと言えば、日本ではあまり有名ではないが、アイビーリーグのブラウン大学(国谷さんが卒業した大学)。


卒業式も終わり、週末かつ学期末休みのキャンパスは人もまばらで生協は開いていない。文化人類学博物館が開いていたので、眺め、中庭で日光浴。


ブラウン大学を出て、2ブロックほど走った所で、車窓を見ると、何かやっている雰囲気の館が有ったので、車を降りてみる。これが大当たり、ブラウン大学の名の元になったブラウン一族のマンションが、年に一度の無料公開日だ。


階段を上がり、



奴隷貿易や中国貿易で財をなしたブラウン家のダイニングの陶器類。


寝室。



窓の外を眺めると、庭に人だかりが。


300年前の衣装をまとってクリケットの原型に興じる女性。


お茶の後ではボーリングと言うか、ペンタクというかをやっている。


写真のお婆さんは年に一度のこの日の為に、ミシンを使わず手縫いで衣装を作り、遠くNYから参加したのだとか。
昔の子供用遊び道具を展示していたので、米国式けん玉?に挑戦。痛い脚をかばったのが良かったか、2回目で成功。


と、散々 ♬Where the old world shadows hang heavy in the air ♪  を楽しみました。
時間も押してきました、ロードアイランド州議会を遠くから眺めて、次の目的地に向かいましょう。


100kmほど走って、ミスティックシーポートへ。ミスティックの港に残る建物にさらにその当時の建物を移築してテーマパーク化した施設。週末なので家族連れが多い。

ニューイングランドと言えば捕鯨船。動態保存されている184年に建造された捕鯨船チャールズ・モーガン号。


ただ、脚が痛いので、先ずは休んでサンドイッチとサラダで昼食。


船鍛冶場でハンマーを振るう女性。


帆船と言えば、ロープは必需品。その昔のロープ工場がそのまま残っていた。何十本の紐をより合わせ、向こう側に引っ張っていく仕組み。


1時間に一本の観光船が出て行ってしまった。


と眺めていたら、湾の入り口の跳ね上げ可動橋が開き、ヨットなどが入港してくる。


元の場所に戻ってくれば、さっきまで広がっていたモーガン号の帆を声を合わせながら、たたんでいる。


また100km走ってニューヘブンへ。まずモーテルにチェックインして、まだ日が長いので、今日2つ目のアイビーリーグ、イェール大学へ。
ビジネススクールは列柱はあるものの、ガラスと鉄の超近代的な校舎。


リベラルアーツ系の本部校舎はイギリス風。


どういう経緯かは知らないが、Bフランクリンカレッジはイェール大学の一部門らしい。中庭でフランクリンと一緒に。


ニューヘブンの町から、モーテルに戻るのに、高速分岐のレーンチェンジが間に合わず、行き過ぎ2回。暗くなった中、宿に戻る。途中の米国の平均的と思われるレストランに飛び込み、ジャンバラヤとチキンパイで夕食。しかし、量が半端なかった。



天気も良いし、260km走って、New England のOld Worldをたっぷり観光した一日。

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昨日はカーテンを開けずに寝たので気が付かなかったが、ハイアニスの宿のテラス側はシャクナゲの花が満開だった。



出発前にハイアニスの町を散歩(と言っても脚が痛いので車で)してみよう。
JFケネディーメモリアル公園。ここ2~3日の雨勝ちの天気が終わり、旅行日和になりそうな青空。

 

海辺のヨットハーバーと光輝く海。


宿の前まで戻ると、丁度目の前がフェリー乗り場だ。事前の計画でマーサズヴィンヤード島を楽しむのは諦めていたが、まだシーズン初めなので、ここから日帰りで、島に渡って帰ってくる選択肢があったかもしれない。


落ち着いた避暑地の印象があるハイアニスでもう少しゆっくりしたいが、荷物を纏めて出発しましょう。
観光名所ということで、ケープコッドポテトチッブス工場見学(100円位のチップスの試食期待)に寄ったが、残念な結果に。


事前の計画では、訪れる予定の無かったフェアヘブンという小さな町にジョン万次郎の足跡を尋ねることができるらしいことに気が付いて、高速を降り、ミリセント図書館に寄ることにした。
素晴らしい建物。


1894年の開館記念式典にはマークトウェインも来て挨拶したらしい。


これが司書カウンターですよ。読書家の天国ですね。


で、司書さんに、ジョン万次郎関連の展示があると聞いて日本から来たのだがと告げると、案内されたのはこの展示。まあ、日本趣味ではあるが、万次郎の物ではないし、、、、、、


と落胆した顔をしていたら、司書がおもむろに見せてくれたお宝がこれ。


司書の求めに応じて、恐れ多くも上皇夫妻のサインしたゲストブックと同じ体裁の続きのブックにサインしてきたのであった。
あ、それから、司書の女性に近所の名所を聞くと、目の前のタウンホール、自分も卒業した高校、そして万次郎が住んでいた家を紹介された。
これまたすごい建築のシティーホール。



入口で躊躇していると、職員らしき女性が中を見て行きなさいと招き入れてくれる。講堂、会議室、、、、重厚な中にも使いやすそうな建物だった。

もう一つの、高校と言うのも気になったので、道すがら訪ねてみると。これもすごいわ。これが公立高校。通称キャッスルと呼ばれているらしい。写真にはとれなかったが、卒業式姿の学生も。


で最後に、ジョン万次郎の住んでいた家と言うか、助けてくれたホィットフィールド船長の家。


これも家の前をウロチョロしていたら、丁度家から日系人と思われる婦人が出てくるところ。これから孫を迎えに行くので閉めようとしているのだが、夫に残ってもらい、見学させてくれるとのこと。
何の予備知識もなしに行ったのだが、この家は聖路加病院の日野原先生が寄付金を集め、廃屋寸前を買い取り修復した家なのだそうだ。ご主人は米軍退役後、数年モペットで世界中を放浪、故郷のフェアヘブンに帰ったら、留学中のご婦人と教会の縁でご結婚。これまたキリスト教の関係で、日野原先生とも知り合い、この家のボランティアをしているのだとか。


本来は予約して有料で見学すべき所を長時間色々お話を聞き、無料では悪いので、記念のTシャツを2枚購入して退散。周りには捕鯨博物館とか色々あるらしいが省略して、ニューポートに向かう。

ニューポートの連れ合いのお目当てはテニスの殿堂。


かって第一回全米テニスチャンピョン選手権の行われた会場だ。今では狭すぎて(と言ってもコートは数十面あるが)収容人数に限りがあるので、ATP選手権しか行われないが、テニスの歴史が展示された、テニスの殿堂がある。


こんなクラブでテニスをした雰囲気を味わうべく、遅い昼食をテニスコートを眺めるテラスで頂く。



ノンビリと午後を過ごしていたら、ニューポートのもう一つの観光名所、ニューポートマンションズが閉まる時間だ。まあ、住めるはずの無い豪邸を金を払ってみても仕方ないという思いもあったのだが、、、
The Breakers.

 

Rosecliffは開門していたので、入って行ったら、何か異様な感じ。結婚式のレセプション中。場違いなところに来てしまった。


閉まっている門から本館がのぞき見できる、比較的小さいマンション。これが、「小さい、マンション」である。


ほかにもニューポート音楽祭の会場とか、ペリー提督の家とか、探訪したき所は数あれど、日も暮れたので、夕飯に。若者でにぎわった港近くは駐車ができず。下町に隣接しているが、警察署の横なので、安心そうなレストランでスペアリブ。



今日は思いがけない出会いもあり、充実した一日だったが、最後の宿だけが外れだった。

 

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