逆風に抗して Against the wind,♪ we are running against the wind.♪
ここではないどこかへ。モモンガーの旅
2018年に横浜から信州にUターン
自転車と日々の生活を
綴ります。
 



昨日言成地蔵尊に絵馬を奉納したのは、江戸時代にはこの地蔵尊参拝が盛んで、大層賑わっていたことを知ったからだ。
去年から始めた月一回の古文書読解講座、先日学習用に渡されたのが、下図の洗馬宿脇本陣志村家文書136号。


初心者の私にはほとんど読みこなせないのだが、先生や長く学習した人たちが読み下したのが、下図の文章である。


お役所筋の?山本与五郎から問屋の志村勘之丞宛に出された指示であるらしい。新福寺の言成地蔵尊の御開帳の際は、見世物や芝居はダメだが、渡り鳥稼業の営業や覗きからくりに関しては許可してやるので、心得違いのないよう興行せよとの指示かと思われる。

洗馬宿に関する史料のアーカイブとして、ブログに登録しておく。
はてさて、こんな文章を読めるようになるのは一体いつの事か?少なくともイタリア語やスペイン語よりは難しそうだ。



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アーカイブとして保存、洗馬宿の町割りを東を上、京方(南)を右にして書いた図。
元資料は長野県史第5巻 P925~P935

尚、宿の東側に関しては、復元された詳しい地図があるが、西側に関しては、最近出てきた志村家文書に虫食いだらけで、判別が難しい地図がある。



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宗賀小学校開校150周年に合わせて製作された、宗賀小の前身となった洗馬学校の模型を見学してきた。
洗馬学校の建物は手狭になったこともあり、売却移築され、無くなってしまったが、百数十年ほど前に建設されて時の写真から、図面を描き起こし、


紙で模型を試作し、


復元模型を作ったもの。


150年前、学制が発布された時に作られた学校としては立石清重が設計施工を担当した擬洋風建築の国宝開智学校が有名であるが、数年後に同じ立石清重によって設計施工された洗馬学校は面積こそ狭いものの、開智の2階建てに対し、3階建てであり、その頃の洗馬宿と周辺地域の教育に対する熱意を感じさせる建物である。


模型は内部の構造まで見られるようになっていて、


洗馬学校のシンボルであり、現在も洗馬学校の遺物として、唯一残る木曽義仲の馬を今井兼平が洗うシンボルマークもバルコニーの上に鎮座している。


私も、同じころ建てられた山辺学校の校舎に設けられた保育園に通っていたので、何か懐かしい気がする建物である。



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いよいよ秋が深まり、我が家の「庭」のダンコウバイも散り始めた。


地上は一面の黄色。


そしてモミジはもうほとんど散ってしまった。


でもそのおかげて、赤の絨毯が敷かれ、ツツジには季節外れの花が咲いた。


さて、冬を告げる雪が降るのは何時か?あまり降らないでくれると良いのだが。



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洗馬歴史同好会のNさんが1866年の慶応木曽騒動に関して説明文を作ってくれたので、アーカイブしておく。


画像でアーカイブの為、検索用のタグ
木曽騒動、世直し一揆、洗馬宿、慶応2年、神明宮、丸山左源太、笹屋伝右衛門、小沢庄右衛門、大和又兵衛門、野口庄三郎、豪商、米買い占め、皇女和宮



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我が家の庭は中山道が開通した400年前の少し後に造園されたと推定される。今から180年ほど前の嘉永2年(1849年)に出版された一種の旅行案内本、善光寺街道図会に「本陣の百瀬氏・志村氏の林泉は、中山道に稀なりとぞ。」と紹介され、庭の絵図が掲載されている。


この庭をモデルにした、芥川龍之介の小説「庭」では「それはこの宿の本陣に当る、中村と云ふ旧家の庭だつた。それが旧に復した後、まだ十年とたたない内に、今度は家ぐるみ破壊された。破壊された跡には停車場が建ち、停車場の前には小料理屋が出来た。」となっているのだが、洗馬駅建設によって破壊されたのは、この絵の上半分のみ。この絵の下半分、石組み渓流とひょうたん池(但しほぼ水無し)の部分は今も残っていて、想像力を逞しくすれば、昔の風景を推定することができる。





土砂で埋まって、普段は水の無い池も、大雨が降ると出現する。


芥庭



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奈良井と平沢での6/8㈯,9㈰の木曽漆器祭りに合わせて、例年通り、奈良井公民館に洗馬宿の展示をするというので、準備に出かけた。


記録の為、展示パネルを掲載しておく。
洗馬宿概要、洗馬歴史同好会紹介


広重の洗馬の夕月、洗馬学校


洗馬学校と脇本陣庭園、芥川龍之介の「庭」


肘掛け松、わかされ(追分)


新福寺、あふたの清水


言い成り地蔵、木曽騒動(丸山左源太)



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尾沢(オサワ)を構成する本沢と左沢の両方を軽トラで行けるところまでたどったので、今度は下流に戻って、まず野辺沢分岐へ。


かってはここに牧場があり、山菜などを採った記憶があるのだが、近年は塩尻市の堆肥製造工場になっているようで、入り口までしか入れない。


野辺沢は諦め、馬頭観音のあるところまで戻る。


宿場用水の取水口へと降りる道へ。この辺りは来たことがなかったのだが、意外にも開けた土地で、まだ水田が耕作されている。


ここが宿場用水の取水口。


大水が出ると、そのたびに石を積みなおす必要があるのだそうだ。今まで庭や畑の散水に宿場用水を利用させてもらっているが、こんな人目につかない作業によって支えられていたとは、恥ずかしながら知らなかった。


尾沢の探検はこのあたりで終わりにして、北隣の大怒田へ。こちらの谷の開口部は尾沢の半分程度、しかも流域面積が小さいので、自流の川は存在せず、谷の末端に湧き水が出て、小さな池があるのみ。昔はもう少し大きくて、スケートをやった場所とのこと。


続いて先日整備した御手洗神社を経由して、今日の軽トラ探検はおしまい。


走り回ったのはこんなコース。地図ダブルクリックで拡大可能な国土地理院地図へ。



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以前、400年前に洗馬宿が作られたのと同時に作られた宿場用水の川筋を辿る散歩をした。今回はその宿場用水の取水点をはじめ、尾沢川(「オサワ」と発音)の源流域を軽トラ探検するという。普段はクマが怖くて、山に入ることなどないのだが、千載一遇のチャンスと、軽トラの荷台に乗り込んで、半日探検してきた。尾沢は鳴雷山と小室山に囲まれた沢で、下流から野辺沢、左沢、本沢に分岐している。

上記の林野組合の地図と下図の今回探検した場所の地図を両方見ながら場所を確認できるようにした。下記地図はダブルクリックで拡大できる。

尾沢を遡ると、所々平になった場所があり、かっては田畑であったことが分かる。沢水の豊富なこの場所では、江戸時代に太刀や銅鏡が発見されたことから、太古より人が住んでいたと思われるのだが、もはや木々に覆われつつある。


左に行けば左沢、右に行けば本沢の分岐点に一の橋がある。


この清流でイワナが釣れるらしい。


右に曲がり、本沢を登ると、二の橋。


林道と川が近接し、道に石がゴロゴロしている。


はかん沢の近く、三の橋である。


やがて谷が深くなり、その横に石積みで護岸工事された立派な林道が続いている。


その理由はこれ、ここは本州製紙の社有林なのだそうだ。


地図に寄れば、ここの右、鋸沢を遡った所に、金廃鉱址があるというのだが、金と言うのは少し眉唾らしい。
少し広い場所、広小場にでたのだが、行く手は倒木で遮られている。


倒木を潜り抜け、名無沢の分岐で林道は終わるのだが、かって左側の名無沢に渡るためにあった四の橋は流されて、渡ることができない。


残念ながら、本沢の探検はここで終わり。


本沢を下り、今度は左沢を遡る。左沢の終点には小沢池がある。



歩く道は池の左側を回って、やがて鳴雷山の肩を越え霧訪山の方に登る尾沢峠へと続いているが、今日の探検はこの堤まで。この堤があるおかげで、宿場用水の水が途切れることなく流れているのだろう。しかし、静かだ!


堤の横には、かっての放水路があるが、現在は堤の水位を下げ、別のゲートから放流しているので、もう使われなくなっている? それとも余水路扱い?


記事が長くなったので、続きはまた明日UP。



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善光寺街道を洗馬宿から松本まで要所を回るツアーご一行様をご案内。まずは芥川の庭から。


続いて、洗馬の名前の言われとなった、あふたの清水へ。


温度一定の湧き水の下流に育つわさび畑にはちょうど花が咲いていた。



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洗馬宿の歴史DB/リポジトリとして、戦後~高度成長期の商工業地図を掲載しておく。
中心部、現在からは想像できないが、数多くの商店があった。


全体図



半世紀前、中山道沿いおよび中央線洗馬駅周辺に駐在所、郵便局、日本通運支店、農協、医院(2軒)、美容院、理髪店、飲食店、各種の商品を取り扱う商店が数十軒と、この町の中でほぼすべての生活関連の用件が完結する町であったことが解かる。
現在、街はずれに移転した郵便局を除き、これら50軒近くの店が消え去り、この図の範囲内に店や飲食店は皆無である。僅かに、19号線沿いに、飲食店とガソリンスタンド、コンビニがあるがあるのみ。中山道沿いは商業地から住宅街に姿を変えている。



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奈良井川を渡り、左岸段丘に達すると、本洗馬に辿り着く。
この辺りでは、旧正月に道祖神のお祭りをやるようで、散歩していたら、竹と提灯で道祖神が飾られていた。




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Map of Seba, 31st post town of Nakasendo
Seba-juku is a Nakasendo post town located on the right bank of the Narai River, at the southern end of the Matsumoto Basin, at an altitude of 750 meters. It corresponds to the present-day Soga area of Shiojiri City, Nagano Prefecture. It is the 31st post town from Edo(Tokyo).
At Seba-juku, the Hokoku Kaido (Zenkoji Kaido) branched off from the Nakasendo. The origin of Seba name is said to be that Imai Kanehira washed Kiso Yoshinaka's horse legs and healed the horse in the nearby Ahuta Spring. 
Following is a map of Seba ( printable PDF map, double click here )



Another Guide Map of Seba-Juku



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② Hijikake-no-matsu: It is said that a famous waka-poet and warlord of the late Sengoku period, Hosokawa Yusai, traveled through Seba-Juku on the Kiso-Kaido with his men. He was impressed by the fine pine tree branch growing by the roadside. He rested his arm on it, and composed a poem. “Rest in the shade of large pine tree, with my arm on its branch, cool winds from river run through my sleeve.” After that, the pine tree was called Hijikake-no-matsu. It is also said that Tokugawa Hidetada, the second shogun of the Edo shogunate, rested his arm on it too. This pine tree withered in the early years of the Showa era and was cut down. The current pine tree is the second generation.

④ The junction of the Nakasendo and the Hokkoku Kaido (Zenkoji-do) on the north side of Seba-Juku was set up as a“Masugata”(right angle turn which prevents large army movement)  At junction, a stone made, large eternal street lamp was donated by the influential locals in the fourth year of Ansei (1857). 80 meters south of the old junction, the new junction was formed for easy traffic in the early Showa period. There are stone monuments such as stone signposts, Dosojin, Tokuhon-hi, and Koshintsuka that were relocated from the old junktion.

⑥ Autano-shimizu (Spring of Encounter) 
It is said that this is the place where Kiso Yoshinaka, a military commander of the Genji who defeated the ruling Heike clan at the end of the Heian period, and Imai Kanehira, a subordinate of Yoshinaka who came from Matsumoto, met at this Spring. Yoshinaka’s horse was tired from long marching, but when Imai Kanehira washed horse and gave it water from this Spring, it immediately regained its strength. According to the legend, the village name “Seba” was come from this story. 
The view of the Naraigawa River seen from around here is said to have become the model for “Seba no Yoruzuki,” a masterpiece of Hiroshige Utagawa’s ukiyo-e series of "Kiso Kaido 63 posts."

⑧ The Site of Seba School 
The Meiji government established school system throughout the country from the beginning of the Meiji era to promote elementary education. The Seba School was initially opened in a private house in 1873, and then moved to the former Kanme Aratajo(Weighing Station). In 1878, a three-story Western-style school was built by Tateishi Kiyoshige, a master carpenter who previously built the national treasure “Kaichi School”in Matsumoto.  The building was called “Babylon Castle” because of its grandeur. The third-floor gable was decorated with a statue of Imai Kanehira washing Yoshinaka ’s horse at the Auta-Spring. It was used until 1920 when the Soga Elementary School was relocated to its current location. 
Currently, the site is used as a community center of Seba.

⑨ Seba-juku Honjin (Official Inn of Seba)
Seba-juku Honjin was initially operated by the Misawa family, and later by the Momose family, which also served as a Kami-donya (a forwarding agent). Honjin, as well as Waki-honjin, had beautiful gardens which were referred as “very rare on the Nakasendō”in many travel guidebooks, but they were lost when the Seba Station of Japan Rail was built on the gardens.
The building of the former Honjin was rebuilt as a fire-resistant building just before the Seba Great Fire, so the lodging book for daimyōs and nobles were saved from destruction. Samurais and officials stayed at the Honjin, and the group led by Inō Tadataka, who created the “Dai Nihon Enkai Yochi Zenzu” (Map of Great Japan), also stayed here during their surveying journey.

⑩ Waki-honjin(Sub-official Inn) and “Garden” of Akutagawa 
During the Edo period, the Seba-juku Waki Honjin was managed by the Shimura family for generations. In the middle of Meiji, the head of the family, Iwao Shimura, served as the first village mayor of Soga. The garden of the Waki-Honjin was referred as a very rare garden on the Nakasendo, but when the Seba Station of Japan Rail was built in the late Meiji, most of the Shimura’s garden became station site and the famous garden was lost.
Oana Ryuichi, a painter and grandson of Iwao Shimura, was a close friend of Akutagawa Ryunosuke, so Akutagawa wrote a short story called “Garden” based on this garden. “Garden” depicts the efforts of the old family to restore the desolated garden. 

⑰ Seba Park/Shinfukuji
In the Edo period, there was a Sohtoh Zen temple called Jizosan Shinfukuji.  A part of temple is now maintained as SEBA Park that has become a place for people to relax.  About two centuries ago, a picture of Shinfukuji was appeared in the Nakasendo Guide Book. Shinpukuji had a building called Zenkoji-do which was regarded as a substitute/representative of Zenkoji Temple in Nagano.  During Edo period, it was very popular, however, it was destroyed in the Meiji era. Early 19 century, the Sougamura Village Office was established here until it merged with Shiojiri City in 1959.  Within the park, there is a Haiku monument of Basho: “A fine day in rainy season, few showers under broken clouds.”                 

⑲ inari-Jizo(Wish-come-true Jizo) 
Iinari-Jizo is a Jizo statue that has gained popularity in the southern Shinshu as a “Jizo who will surely make your wishes come true”. This Iinari-Jizo was the main statue of Jizosan Shinpukuji Temple, which was located where the current Seba Park is. In the early Meiji period, Shinpukuji Temple was abolished due to the Haibutsu Kishaku (Abolishing Buddhism)movement but Jizo statue was secretly kept by the members of the temple. There was also a small building called Zenkoji-do in Shinpukuji Temple, where the Gokaichou (Open curtain) of Nagano Zenkoji Temple was also held.
In the early Showa period, the Jizo faith was revived when a small temple was built in the current location by volunteers from the district, and it became famous as one of the eight famous Jizo temples in southern Shinshu.

⑳ Seba Shinmeigu Shrine 
Seba Shrine is said to have been founded in the early Edo period when Seba-juku was established on the Nakasendo. Initially, there were two shrines in Seba-juku: the Kamisha (Upper Shrine) enshrining Ise Daijingu and the Shimosa (Lower Shrine) enshrining Kumano Shrine. During Post war period, the Shimosa became a construction site of an elementary school, so the Shimosa was abolished and merged with the Kamisha to become Seba Shrine. The male and female Lion dances performed annually at the autumn festival in Seba are designated as intangible cultural properties of Shiojiri City.

 



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善光寺街道、中山道を歩いて旅する人向けの、洗馬宿(江戸より31番目)の名所旧跡のガイドマップ、地図です。
下図をダブルクリックすると、高精度/ダウンロード可能なPDFが開きます。

 

図中の案内は下記を参照ください。(ダブルクリックで印刷用)



 



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塩尻市図書館から紹介のあった日本庭園研究会の松山茂雄さんが、芥川の庭を半日かけて観察した時の研究論文を送付頂いた。庭園の研究家であるので、見る目が違う?庭の歴史も含めて、よくまとまった論文であるので、芥川の庭のデーターリポジトリとしてここに掲載しておきます。

研究論文への全文リンクはこちらから
芥庭



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