逆風に抗して Against the wind,♪ we are running against the wind.♪
ここではないどこかへ。モモンガーの旅
2018年に横浜から信州にUターン
自転車と日々の生活を
綴ります。
 



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10年前の旧ユーゴスラビア自転車旅行記、走りつかれた夕食後、しかも
不安定なネット環境下で毎日記事UPしたので、手抜きの暫定版のままであった。
コロナで旅行もままならぬ10年後の2021年に、キチンと書き直してみた。
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  2011-6/13 Day12 : リブノからドルヴァルへ   

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今日は高原上の大きな平原の東側の縁に沿って、走る日。


リブノを出て10kmほど、行く先に、丘の上に広がる小ぎれいな町が見えてきた。


でも、近づいてみると、緑の中の白壁と赤屋根が朝日で輝いているが、普通の農家である。


我々以外、車のほとんど通らない平らな道路を快調に飛ばす。


ケシの花の咲く民家の前で小休止。



野生でだって、野原は花々で覆われている。でも、野草や牧草以外は育ちにくいやせた土地のようだ。



平原の直線道を走っていたら、車ではなく、老若男女が三々五々歩いていく。
行く先には何もないように思えるのだが。
(数KM走り50人ほどを追い抜いただろうか、とある教会に人が集まっていた。多分結婚式?)


高原の平原を横断するただ真っ直ぐな道。
最初は感激したが、その内漕ぐのに厭きてきた。


平原のどん詰まり、行く手を遮られて、やっと変化が現れてきた。



小さな丘を登ると、このあたりの寒村で、廃屋が目立ち始める。
手前の看板には何が書いてあるのか??


弾痕の残る廃屋の後の山の向こうはクロアチア。


どうして、廃屋が多いのか?ガイドに尋ねると、悲しそうに、この辺は多数のイスラムボスニア人に少数のセルビア人が混在して住んでいたのだが、内戦でセルビア人が追い出され、廃屋になっているのだそうだ。
道の脇に湧き出している泉があったので、ここで一休み。


休憩した家の前の大きなさくらんぼの木から、家主の許可を貰って、チェリーを頂く。おいしい。

 

廃屋群から少し走ると、今度は道路わきに地雷注意の標識が。まだ田舎では地雷除去が進んでいないようだ。


登につれて、空が曇り、雨がポツポツ落ちてきた。一本道でダブルGPSの必要はないので、防水ではないNuviは仕舞う。



だいぶ登ったつもりだが、また向こうに緩やかに登る道が見えてきた。


周りは所々に石灰岩が露頭しているカルストとお花畑なのだが、とにかく、ここを登り切って、昼食の場所を探さねば。



峠を登り切り、標高800mの次の高原に出ると、天気は回復。周りは何もないが、360°、野草が咲き乱れる一面の野原。ちょっと遅くなったけれど、ここで昼食にする。


気温も丁度、日差しも暖かく、高原の極上ランチを頂いた後、私はお昼寝。天国じゃ。
一方、元気なご老人でもお茶目な人は、人妻に花束を贈る。




高原のランチを楽しんだ後、高原の端の山を登りきると、また天候が急変、雷雨だ。
さきほどまで、あれほど天気が良かったのに、雷鳴と雷雲が後から迫ってきた。
懸命に漕いで逃げようとしたが、土砂降りと雷で、自転車を放り出し、全員車内退避。


雷雨も上がったので、まだ走りたりない数人を除き、10数人は車載でホテルへ。
走り足りない数人はまだ小雨の残る中、残り30km、200mヒルクライム+500mダウンヒルに挑戦。
いつしか、レース状態になり、私ももがいてみたが、年上のサイクリストに抜かれ、あえなく敗退。



しかし、この標高差500mのドルヴァルの町へ向かってのダウンヒルはすごい光景だった。写真はほとんど無いけれど。脳裏に焼きついている。走ったのはこんなコース。ボスニアの高原地帯の南北にのびる谷とその間の丘を105km走った。



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10年前の旧ユーゴスラビア自転車旅行記、走りつかれた夕食後、しかも
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  2011-6/12 Day11 :モスタルからリブノへ    
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朝目覚めてホテルの外を観光しようとするも、治安が悪いとかで、ホテル入口には鍵がかかっていて外に出られない。しばらくしてからようやく朝食前の短い観光。
ボスニア戦争で屋根や床が焼け落ちて、石の外壁のみが残った建物。15年前は立派なビルだったと思われる。



屋根は無いが、3階の床を屋根?にして、1階のみリノベして、観光客向けのバーになっている家。
表面だけ、それも1階のみのリノベと入口の鉄格子、そして2階、3階の弾痕が対照的だ。


そんな戦乱の跡が濃厚な町にも日本の援助のバスが走っている。


朝日を受けるモスタルの橋を背景に、記念写真。


今日は距離も長く、高原地帯を走るので、交通量の多いモスタル周辺は車載で抜け、山の上に向かう。モスタルの交通整理の警官はさっそうとMTBを乗りこなしている。


盆地にあるモスタルを遠目に、標高を上げていく。


午前10時、モスタルから45km、標高680mのブラニツ峠から今日のサイクリングはスタート。
(文末のコース地図、どういう訳か、高度が1000mほど高い)



自転車が早く降りたので、走り出すのが待ちきれない私。


峠からの下りを快調に飛ばし、最初の町、Posusjeへ。


小さいけれど、戦争の跡など感じさせない静かな町だ。


ゆるゆるとした起伏の中、緑の風を感じながら走る。


大きな谷の東側の山裾を走っているので、眼下に谷とその向こうの山脈を見ながら走ることになる。

その内に山が迫り、上り下りが出てきた。


岩山の横に7%の登りのサイン。



登りつかれ、時間も12:30になったので、標高915mの草原でお昼ご飯。


辺りには野草が咲き乱れている。


さあ、お腹も膨れ、これからは向こうの次の平原に向けて下りのはずだ。


なだらかな下り、周りに広がる緑の平原、空は青空。

Donji Brisnikの村を通り抜けようとすると、良い香りが漂ってくる。羊の丸焼きBBQだ。あぁ、お昼ご飯はここでするべきだった。隣では焼き上がった羊を大きな包丁で切り分けて売っている。


ちょっと試食させてくれた、お兄ちゃん。


牧場が広がる平原を走り抜けていく。

 

トミスヴグラードで西に方向を変え、


再び次の峠に向けての登攀が始まる。


ハマナスに似た美しい花が咲いている。


チョット高度が上がり、平原が下に見える。



峠を越せば、見えてきました、ブシュコ湖。左岸にこれから下って行く楽しそうな道が見える。



湖を渡る風が心地よい。


上り下りしながら、70km走り、疲れ果ててきた。今日の最後の登り。丘をゆるゆると登ってゆく。


さぁ、ここからはほどんど漕がなくてよいはず。リブノに向けて、ダウンヒル開始。



ルンルンルン



夕日を浴びて、今日の宿泊地はもうすぐそこ。



山麓の町、リブノへ。


今日の走行距離は84km。泊まったパークホテルの脇を清流が流れている。ホテルの受付に聞くと、この流れを辿ると、山腹から多量の水が湧きだしている洞窟に至るとのこと。


散歩がてら山のほうまで遡ってみましょう。


そろそろ暗くなってくる頃、山腹に開いた洞穴から、大量の水が湧きだしている地点に到着。


走ったのは84km、添付地図の高度表示は1000mほど差し引いて見てほしい。



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  2011-6/11 Day10 :トレビニエからモスタルへ    
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快晴のサイクリング日和、地中海性の気候のトレビニエの町の周りには太陽と水と石灰岩の土に恵まれ育つ葡萄畑が広がっている。


トレビニエ川から葡萄畑を灌漑する用水路に向け、揚水用の水車が現役で動いている。


アドリア海沿いに走る山脈の麓を流れるトレビニエ川が作った平原を20km/hの高速サイクリングモードで走る。どこまでも走れそうな気分。1時間強、22kmも走ってから、ようやく第一回の休憩。目の前に広がる平原に眼を奪われる参加者。


石灰岩質の為、川から離れ水が無くなって来ると牧場になるようだ。しかし牛の牛口密度?も低そうだ


2回目の休憩、ここまで30kmも走ってしまった。


風もなく、晴れ渡った空の下、快調に飛ばす。

 

と、行く手を遮る、モフモフ集団。羊さん、通して!


楽しかった高速巡行も終わり、プチ峠を超えて行く。


さらに、数%の登りだ。


シンガリを勤め、欲求不満の2人は、300mの登りで競争。
ピークが見えたら、仲良く歩き。


さっきのピークで登りは終わりかと思ったら、まだ登らにゃならない。

 

最後と思われるピークでサンドイッチランチ。その後は楽しい下りだ。遮るものの無い直線道路を風を切って下る。


しばらくまた登った後、ヤッホー、行く先には大平原と10%の下り標識


どんどん下る、下る、500mも下った。


しかし、下った後の村の向こう、行く先と思われる方向に登りの道が遠望できる。



写真だと平坦に見えるのだが、もう90kmも走って、UP-UP-Down-UP-UPでアップアップだ。


谷あいの村には葡萄畑


さぁ、今日最後のヤッホー下り。車が来ないので、カーブも順調。


モスタル郊外の飛行場近く、観光地に近づき、道も狭い。走行距離110km、獲得標高1100mと今日はガッツリ走ったので全員車載でモスタルに向かう。



ボスニア内戦の激戦地の一つ、モスタルに到着。今日のホテルは砲撃で廃墟となった建物の隣だが、スターリモスト絶景点からはたったの30m。

右がイスラム教徒地区、左がキリスト教徒地区。たった10年前には川を挟んで内戦があった。その2つを繋ぐ、モスタルの世界遺産、ネレトバ川に掛かるスターリモストを背景に記念撮影。



夕映えのキリスト教会の塔。教会の鐘の音とコーランの祈りの音が攻めぎ合っている。

 

この所ずっと肉料理とチーズで飽きていたのが、川沿いのレストランで青空の下、鱒のムニエルが美味かったし雰囲気も良かった。但しワインの値段が観光地料金だったのには参った。


モスタルのスターリモストを徒歩で渡り、少し暗いイスラム教地区を歩いてホテルに帰着。

コース概要と写真撮影点がわかるマップは下記をダブルクリック。



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  2011-6/10 Day 9 エーゲ海の青とレンガ色のドブロブニク  
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今日は旅行の中間日、万一の事故や天候不順に備えての予備日だ。でも幸いそんな万一は起きなかったので、自転車には乗らず、ローマ時代から続く都市国家、世界遺産の町、ドブロブニク観光へ。

でもその前に、気持ちの良い早朝、トレビニエを一回り散歩。スターリグラードを背に橋の上で。


車でボスニアとクロアチアの国境を越え、しばらく走ると、突然、紺碧のエーゲ海に浮かぶドブロブニクが見えてくる。写真では本当の青さが出ないが、これが本当のAegean Blueだ。



この海の向こうはイタリア、目の前をエーゲ海クルーズの大型客船がドブロブニクの方に向かっていく。他人任せで寝ている間に目的地に着くクルーズもリッチで良いけれど、負け惜しみで言わせて貰えば、自力で移動している自転車旅行の方が、できる人が限られているという意味で、もっとリッチでは?(やはり負け惜しみだね)


旧市街入口に到着。背後に写っているホテルはクロアチアーセルビア戦争で破壊されたものを再建したもの。


入口でこの町のガイドが付いて、さらに町への入場料を払って、城門から入場。旧市街入口の泉の前で、今も水が湧き出している水のみ場。ちょっと飲んでみたが硬水でおいしい。後ろはプラツァ通り。


ドブロブニクの中は、まさに中世のイタリアの町そのまま。でも観光客ばかり。私もその一人なのだが、、、


知らない場所に来た時は、高い所から、地形を把握するのが良い。幸い町を取り囲んでいる城壁の上を一周するとガイドが言うので、まずそこを一周散歩することにする。
城壁の上に登れば、背景の青い海に、レンガ色とテラコッタの屋根が好対照をなしている。


壊れた中世の要塞が城壁の向こうに見える。


海側の城壁の下はエーゲ海。そこから山の方向に町が伸び、城壁の外にさらに新市街が広がっている。


城壁の所々に監視台がある。まるで空中に浮んでいるみたいだ。

 

貧乏旅行者には目の毒のあの豪華客船、撃っちまおうか? この方角で、距離が測れ、砲術がしっかりしてれば、入ってくる船は確実に迎撃できるね。


海は透明だし、空に雲はないし。のんびりビーチで日光浴も良いかも。


港にはヨットが沢山停泊中。クルーザーに泊まって観光しているリッチな人も多いのだろう。


赤屋根が続くが、15年前の内戦で町の多くの建物が破壊され、内戦後ただちに再建されて、この姿に戻ったとガイドから聞かされる。内陸の激戦地ではまだ弾痕の残る場所も多いのだが、表面的にはこの町に戦争の跡を見つけることは難しい。


家と家の間を細い小路が繋いでいる。


全員ではないけれど、町を背景に集合写真を。


何とか教会。狭い町なのに、寄進でできた教会がいっぱいある。


市内に戻ってきて昼食後に街角で


町の一階は瀟洒な旅行者向けのお店、その上が住居のようだ。狭い町、田舎者の私には結構息がつまりそう。

 

小路をトントン登っていくと、色んな店屋さんがある。



何か記念になるものをと探して、クロアチアの刺繍入りの布をお土産にゲット


そして、また狭い小路を抜けて、


大通りにでると、またまた教会が見える。


美しいものの、どこか違和感のある、生活の匂いがしない世界遺産の町を歩き回った一日。歩いたのはこんなコースだ。



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10年前の旧ユーゴスラビア自転車旅行記、走りつかれた夕食後、しかも
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  2011-06/09 ガッコの大草原から住みたくなるような町トレビニエに
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国境越えや雨などで昨日の走行距離が30km弱だったこともあり、皆さん元気に早起き。大草原の自転車乗り達。


所が、石炭が採れるらしく、この大自然の中に火力発電所がある。


発電所近くというのに、皮肉なことに、昨日の雷雨で夜中から停電のままだ。朝食は予定より1時間近く遅れたが自然光を頼りに何とか頂く。


今日は高層雲はあるものの晴れ渡った、サイクリング日和、標高1000m近いGakoの大草原から出発し、しかも基本的には数百メートルの下りの日だ。


岩山は石灰岩系であろうか? 草原が美しいが、カルスト地形で保水性が無く、牧草しか育たないようである。


まるでスイスの寒村という感じの山肌に張り付いた村。


交通量の極く少ない道を空に向かって登っていく。


結構な傾斜ではあるが、まだ皆さん余裕の表情でお話しながら登る。


ようやく峠に到着。ピークには道標代わりの小さな祠がある。日本の道祖神や馬頭観音のように、旅人の目印だったのだろうか?



その後ろを覗くと、鍾乳洞の入口が覗いている。


小休止の後は、さあ、いよいよすばらしい下りだ!


高原にも夏が迫り、そこかしこに花が咲いている。


高原の一軒屋の周りにも野草。こんな所でどんな暮らしをしているのだろう。


都会と比べれば、極めて細い送電線のメンテナンス工事をしている。


久しぶりに人を見たので、この辺りで休憩と停止すると、どういう訳か蝶々が道路で集会を開いている。


しばらく平坦地を走った後、またまた素晴らしい下りを楽しむ。行く手に小さな町が見えてきた。

 

久しぶりの町中、Bilecaの町で今日初めての信号機待ち。


標高が500mも下がったので、暑くなってきた。Bilecko Jezero湖の湖畔でアイス休憩をして、ワンコにご挨拶。


さっきまで、晴れていて、暑いと思っていたら、急に雷雲に覆われ、雨だ


雨具を着て、走り出したが、今度は牛さんに行く手を阻まれる。


次の峠に向けての登りで、晴れてきて暑いので雨具を脱ぐと、また雷雨。雷鳴が激しく、行く先に黒い雲も見えるので、走行距離は52.4kmと短いがここで撤収とすることにする。農家の庭先を借りて、自転車を車載へ。



第二の峠を越えて、本当は自転車で下りたかった坂を車で下れば、トレビニエの町が見えてきた。



ホテルに着き、シャワーを浴び、濡れた服を洗濯し終わったら時間が余ってしまった。しかもトレビニエの町に着くと、ウソのような晴天だ。ホテルのレセプショニストとのつたない会話で、近くならスターリグラード、散歩するなら丘の上の教会からの風景が見ごたえがあるとの情報をGet。



猿と同じで、高い所が好きな私が行かない訳にはいかない。休んでいる間に充電しておいたガーミンを持って未知の町の探索に出かける。トレビニエは古い町なのだろう。丘を登っていくと、石造りの砦が遠くに見える。


急坂を登って着きました、丘の上のグラッツァニッツァ教会。内戦後の2000年にコソボの古い教会のコピーで作られたらしい。内部のイコンなども新しいので、古いものが好きな人にはお勧めできないが、それでも一見の価値がある。


教会の前に立つと、眼下にはトレビニエの町が広がっている。
ここからの光景は圧巻だ。高度差230mを登る価値が絶対ある。同行の数人に勧めたところ、後で皆に喜ばれた。


ここから見下ろすと、トレビニエの町の様子が良くわかる。


町を貫くトレビニエ川に掛かる古い橋=スターリモストはもちろんモスタルの物が一番有名だが、この町にだってある。


ローマ時代を感じさせる屋外劇場の向こうに広がるトレビニエの町。


そして今が盛りのジャスミン。戦争が無ければ、こんな田舎町にチョット住んでみたいものだ。


スターリモストまで降りてきた。まだ現役で日常生活に使われている古い石橋だ。


盛んに橋の写真を撮っている外国人を不思議そうに見る、近所の子。


さてと、スターリモストの次は、もう一つのお薦め、スターリグラード=旧市街の散策だ。


歩き疲れた頃、城壁に囲まれた旧市街の一角にカフェを発見。



キューバ、ブラジルとかマリブは分かるけど、それが一体、何であるかが分からないメニュー。



いつもの手で、若いカップルの男性の方に英語で、今食べてるのは何?幾ら?と聞くと、女性の手前、しっかり英語で説明してくれたので、望み通りのチョコレートパフェが注文ができた。


ホテルに戻る途中、丘の上の教会が見える。今日はあそこまで、歩いたんだ。


夜はホテルのレストランで食事。初夏の風が通り抜ける、すがすがしい夜。明日は旅の中間点、走らなくても良い休養日/日程調整日/観光日だ。


走ったり、歩いたりの今日一日の行動地図はこちら、地図をクリックで詳細データーへ。



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10年前の旧ユーゴスラビア自転車旅行記、走りつかれた夕食後、しかも
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  2011-06/08 モクラゴーラからビシェグラード経由ガッコへ
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今日のハイライトは世界遺産のビシェグラードの橋、メフメットパシャソコロビッチ橋を観光することと、ストジェスカ自然公園内の山岳、峠越えのコースを走ることだ。そして、私的には、ヴィシェグラード発電所を訪問すること。

今回ビシェグラードを訪問するに当たっては、下記の本を読んだり、買ったりしてきた。


ノーベル文学賞を受賞した、アンドリッチの「ドリナの橋(The bridge on the Drina)」は、オスマントルコの時代から第二次大戦までの歴史をつづった長編文学らしい。らしいと言うのは、日本語訳を図書館で借りる元気がなく、まだ読んでないからだ。そこで、今回ベオグラードで英訳本を買った訳だ。

何時読めるかは、かなり疑問だが、まあ宿題としておこう。

一方の、「兵士はどうやってグラモフォンを修理するか」は、アンドリッチの小説に対するオマージュとして、最近ドイツで出版された小説で、12歳だった作者、セルビア人とボスニア人のハーフであるスタニシチのボスニア戦争前、戦争中、そしてドイツ亡命の事を書いた小説だ。

この小説には、日本人を描写した場面が出てくる。2人はボスニア戦争の勃発直前に昨日見たバイナバシュタ発電所の上流、ビシェグラード水力発電所建設で2年ほど町に住んでいたとの設定なので、多分これは私の先輩のTさんとIさんだろう。

ビシェグラード発電所の水車製造では、重さ百トンを超えるランナのステンレス鋳鋼素材の鋳込み立ち合いから、工場完成まで、生産技術課長として関わったので、私としても発電所を見ておきたかったのだ。(据付中の11万kWランナー)

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今日泊まったのは、有名な映画監督クリストリッツァの監修した、ロッジ。二階のダブルベットを使わせていただいたが、天井が低くて往生した。


今日はセルビアから国境を越えてボスニアに入国するので、自転車は車載のまま国境の検問所へ。国境前の鉄道路線は”Life is miracle"のトロッコシーンに使われたと思われる狭軌の鉄路だ。



レンタル自転車が新品なので、自転車の輸入/輸出に当たるとかで、書類手続きに1時間かかる。かっては同じ国だったのに、内戦の結果の国境である。
国境通過待ちの旅行客からたっぷりえさを貰い、太ったワンコ。でも車に引かれたのか、後ろ足が不自由だ。

 

この渓谷に沿って走る鉄道は、渓谷美もあってSL観光列車が走るらしい。鉄チャンのTさんはうらやましそう。


本当は自転車で下りたかったが、交通量も多いし、今日の走行距離を考え、この部分は車載でパス。20年前、先輩のTさん、Iさんが2年間住んでいた、ヴィシェグラードの町に入る。小さな町だが、15年前の戦争で、住民の過半は入れ替わっているらしい。

 

着きました、世界遺産ヴィシェグラードの橋。ヨーロッパとアジアの接点、キリスト教とイスラム教がせめぎ合った場所、そして15年前の内戦であやうく破壊されそうになった橋。


ドライバーはランチ調達に出かけているので、我々は観光タイムへ。


橋を背景に。


橋の上からヴィシェグラードの町を背景に。



橋を渡る観光客にも日本人のサイクリスト集団は珍しいらしく、呼び止められる。

 

ドライバーが昼食を買出しに行ってくれたのだが、なかなか車が戻ってこない。
ドリナ川を眺めぼんやりとする一行。


ようやく昼食調達、車載で走り出したが、発電所で10秒で良いから停車してと頼んではいたものの、GPSがトンネルで電波を失い、ヴィシェグラード発電所を通り過ぎられてしまった。
残念ながら私も製造に多いに関ったヴィシェグラード発電所は遠くから眺められたのみ。

 

小さな町の公園で昼食後、少し歩くとTさんが、あれ!弾痕では?と指差す。
確かに、弾痕だ。


美しいバラが咲き誇っているが、15年前はここで戦争があったのだ。


走り抜けただけなので、良くは判らないが、多くの家の壁面に銃撃跡を修復したと思われる模様が残っている。ゴラジュデもまた、あの戦争で激戦地であった場所だ。

 

これも弾痕だろう。

 

ドリナ川を渡り、いよいよ山に入っていく。道路標識は2ヶ国語で書かれている。サライエボと反対のトレビニエの方向へ。

 

今日は朝ご飯1時間遅れ、国境通過1時間遅れ、ヴィシェグラード橋30分遅れと、スケジュールが押したため、3時を過ぎてPrijedel峠からようやく走行開始。眼下にこれから下る道、そして登らねばならない山が見える。

 

路面はそれほど良くないがMTBならどうってことない楽しいダウンヒル。車があまり通らず、ストレス無しに走れる道だ。但し事故っては元も子もないので35km/hキープを旨とする。

 

ダウンヒルが終わると、行く手に雪の残る山が見える。モンテネグロの山だそうだ。


渓谷を一旦抜け出して平原に入ると、強烈な逆風が吹いてきた。先頭を引かされている私には辛い。
ユーゴー時代に築かれ、今も国民的には人気があるらしい、パルチザン戦争を記念する巨大なオブジェ。でもこれって個人崇拝ぽい。ユーゴー時代の遺物にはスターリンと対立しながらも、みずからも国民統合の象徴となったチトーの事大主義が感じられ、幻滅。

 

あれほど激しかった風も収まり、周りは半高原の牧草地帯、ここを一直線に貫く道路を快調に登る。

 

平原を抜け、渓谷の中に入ってきた。ふと見上げると、岩峰の上に1本松が。


多分氷食地形と思われる岩山、ストジェスカ国立公園。
雰囲気がヨセミテの入口あたりと良く似ている。


両側を断崖が囲み、その中をドリナ川が流れている。
車も少なく、楽しく走れる道だ。

 

少し傾斜がきつくなってきたが、まだこの頃は景色を眺め、雑談しながら登る余裕があった。

 

いよいよ急坂となり岩峰が目前に迫ってきたのでたまらず休憩。


しかし、道が荒れてきて、傾斜も急になると、皆無口で、集団がばらけて来る。

 

だいぶ道が細くなってきて、車も通らなくなった上に、空模様も怪しい。

 

残念ながら時間も18時近くなり、その上降雨と雷鳴が始まったので、この辺で走行中止の判断をする。
向こうにはまたモンテネグロの山が見えている。この後強烈な雨が降ってきて、早く撤収判断をしてよかった。でもあのダウンヒルはもったいなかった。

 

車で山を越え、見渡す限り大草原の高原のホテルにようやく到着、ここもロッジ風。嵐をもたらした前線が東に去り、わずかな青空に日が暮れていく。


内戦被害の傷も生々しい街中の大部分は車で走ったが、車の少ない自然公園をサイクリングした一日。こんな場所を走った。(地図ダブルクリックで詳細へ)




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10年前の旧ユーゴスラビア自転車旅行記、走りつかれた夕食後、しかも
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  2011-06/07 ズボルニックからモクラゴラへ
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今日はドリナ川を100km遡って、そこから最後に標高差1000mの峠を超える総走行距離160kmという超野心的走行計画である。まあ、この位の計画になると、誰も全てを自走でとは考えていない。1000m/斜度10%超の峠越えを事前に宣伝して、皆さんの車載走行への早期移行をお願いした。

と言うのは会社に入った1974年、当時2台目を作っていたBajina Basta発電所をしっかりと見たかったからだ。会社に入って初めて見る30万kW級の水車、それも当時の落差世界記録を更新した水車と発電機が納まっているこの揚水式発電所を背景に記念写真を撮り、自転車でこの発電所までたどり着いたと言うことを先輩方に吹聴したかったからだ。
(現在の世界記録は葛野川発電所、松姫峠と日川峠の間にあり、ここを一日で回ったのがこの記事)


朝、昨日泊まったNovakホテルの前で。やけに新しいホテルでかつペラペラの内装。多分内戦の後に、急遽建てられたホテルだろうと思われる。



宿を出ると、ズボルニックの町外れの教会が見える。ふと見上げると、丘の上まで墓地が続いている。良く見えた訳ではないが、(内戦の犠牲者?の)新しいお墓が多そうだ。


銃を持った警備兵に守られた国境でパスポートに押印してもらい、ドリナ川をもう一度渡り、セルビアに戻る。ふ~ぅ、緊張した。


ドリナ川右岸に沿って、セルビア側の道路を走行する。川向こうにはボスニアの町が見え隠れする。町の中心は教会ではなく、ミナレットのあるイスラム寺院だ。


ドリナ川が削った河岸段丘の端に多くの湧き水があり、休憩場所には事欠かない。


川岸に面白い恰好の家発見。童話に出てくるキノコの家のようだ。


一方、古い農家も多い。正倉院?のような高床、校倉作り風の穀物倉庫?も目立つ。


川沿いの上り下りのそれほど無い道を快適に?走行する。車は少ないし、景色は良いし。ただ、路面は良くない。MTBでもデコボコを拾うし、走行抵抗が大きい。


内陸性気候の為、朝は寒かったが、気温が急上昇。教会前=村の中心=店屋がある=アイスで一休み。


気温が30度超えとなるも、隊列も乱れずに一団で走行。


ドリナ川の河岸段丘上の平坦地は穀物畑でそこに村が点在している。


今日の目的地の1つであるBajina Bastaの標識時々が時々現れるようになる。
あそこまで行けるか?


ここまで64km。残りの距離と登り、気温を考慮して、少し早めであるが、昼食後全員車載に切り替える。


ドリナの清流で顔を洗う。冷たくて気持ちがいい。しかし、流速が早く、落ちればおぼれる可能性大。


Bajina Bastaの町。40年前、先輩の何人かはここに数年住んでいたのだ。


今日、無理を言ってここに寄ってもらう事にしていた。私が入社した時、2台目の製造の最後で、1個10数KgもあるM120の馬鹿でかいナットのペンキ塗り実習をしたBajina Basta発電所に到着。揚水発電所として、当時世界最高落差の600数十mを誇り。この記録はブルガリアのチャイラ発電所を造るまで、20年近く破られなかった発電所だ。40年前の諸先輩の苦労が偲ばれる。


先ほど見た発電所は下池の発電所。揚水式なので、ドリナ川の下池から600m上の池に一秒当たり50トンの水を揚水する。本当は自転車で上池に登りたかったのだが、日程、体力からそれは無理。車で一気に500m登り、展望ポイントに着く。眼下には満々と水を湛えたバイナバシュタ発電所が見える。
この風景を眺める為、ヤビツ峠を走っている集団のYSGジャージを着て今日走ってきたのだ。


発電所脇にはドリナ川が1000mを削り取った崖があり、そこを上ダムを作る為に作った道路が登っている。下流の方を眺めると、ドリナ川が大地を潤し、流れていくのが判る。しかし、こちら側がセルビアで、向こう側がボスニアと、国と人を隔てる川でもあるのだ。(視界の先、丘の向こうが激戦地、スレプレニツァの辺り)

 


標高が1000mを超えると、周りの景色はいわゆるアルパインメドウになってくる。


家は山荘風になり、牧場には高山植物が咲いている。


私のGPSに無い道を登り始めたので心配していたら、やはり自転車を載せたトレーラーを引くFiatが森林中のWet路面で滑ってこれ以上先に行けなくなる。また来た道を引き返す。


山中にある宿は、Life is miracleなどを製作した映画監督のプロデュースで、彼が数分前まで居たとのこと。セルビアに来るに当たって、この映画を見てきたTさんが悔しがること。各建物はセルビアの高地の家風で、それぞれ設計が異なっており、意匠は面白いのだが、使い勝手は今ひとつ。私はこの後の2階で、天井の低い部屋だった。


夕食時、ビールの飲めない私は革命ラズベリージュースで乾杯。

 

ボスニアとセルビアの国境地帯を走った今日は、実に収穫の多い一日であった。下記に Mapと写真レポートのリンク地図。ダブルクリックして各地点の写真を見てください。



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10年前の旧ユーゴスラヴビア自転車旅行記、走りつかれた夕食後、しかも
不安定なネット環境下で毎日記事UPしたので、手抜きの暫定版のままであった。
コロナで旅行もままならぬ10年後の2021年に、キチンと書き直してみた。
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  2011-6/6 Day5 Sabac(シャバツ)⇒Zvornik(ズヴォルニク) ドリナ川下流の穀倉地帯を走る  
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実走行2日目はセルビアの穀倉地帯を走り抜ける。
昨日は直前に紙の地図を渡され、これでトップを引けとの話で苦労したので、寝る前にGPSに紙地図を打ち込んでおいた。
しかし、ガイドがこの日本人集団、平均年齢65才の割りに、まともに走れそうだということで、今日も出だしから、紙地図とは違う田舎道周りのルートを行くことになった。

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朝、ホテルのフロントが珍しそうに見守る中、出発前の全員ラジオ体操。



渡された地図の予定ルートの幹線道路とは異なる田舎への道へ。小さな町を走り抜ける。



やがて、一面の麦畑やトウモロコシ畑の中を走り始める。



と思ったら、ダート突入。ほぼ全員MTBだから、これも楽しい。


舗装道路に復帰と思ったら、あれぇ~、前から来るのは馬車じゃん。これで農作業に出かけるんだ。



どこの町にも、高く聳える教会がある。教会が見えると、ああ町だな、アイス休憩可能だとほっとする。気温は32度と6月初旬とは思えない高温だが、幸い湿度が低い。


家の煙突の上にコウノトリの巣。下で火を焚いたらどうするんだろう?この後、そこここでコウノトリの巣を見る。



家々は質素だけれど、季節の花で飾り付けられている家が多い。



セルビアの田舎の子供は人懐っこい。レスニッツァの町の公園の日陰で日本人が昼ごはんのサンドイッチを食べている所に三々五々寄ってきて、色々話しかけてくる。

 

学校帰りの子供に珍しげに囲まれ、ひと時の交流を楽しむ。


ドリナ川が作った平原なのであまり登り下りはないのだが、それでも時には登らねば、楽しい下りも生まれない。


ロズニッア、典型的なセルビアの田舎町を走り抜ける。建物は古ぼけたものが多い。



90km近く走り、暑いし、疲れてここが最後の長い休憩と迷い込んだバニヤ・コビリャチャ公園の芝生の上で寝ころがっていた。一番若いメンバーが、奥がすごく広くて綺麗と言うので、走り回ってみた。穀倉地帯の中なので、この辺りの領主の物だった館=マンションがあり、社会主義時代には人民の保養施設になり、今は素敵なSpaとホテル、レストランのある公園になっている。


出発後、夕立に会うが、涼しくなってこれも良い。やがて、母なるドリナ川に到達。短時間休憩。


今日の宿泊地は国境を越えたボスニア側のズヴォルニク。ドリナ川橋の国境検問所でパスポートにスタンプを押してもらい、緊張しながら国境を越えて、Novakホテルへ。(10年前の内戦の最前線なので、カメラは出さず写真は無し)

楽しい夕食の時間。昨晩私がサイクリングが楽しすぎて、結婚記念日のメールを送付し忘れそうになった話をしたら、お仲間が気を利かせ、夕食時に結婚記念日ケーキを準備してくれた。こんな楽しい仲間に入れていただいてありがたいことだ。


少し登り基調の平らなコースを予定の85km程度から、実際は106kmと走行距離は長くなったが、色々な出会いを楽しみ、セルビアの穀倉地帯を走り抜けた一日、走ったのはこんなコース。(地図クリックで詳細データーへ)



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10年前の旧ユーゴスラヴビア自転車旅行記、走りつかれた夕食後、しかも
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  2011-6/5 D4  Babe(バベ)からSabac(シャバツ) サバ川へ向けダウンヒル
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今日は旅行の4日目、ようやく自転車走行の一日目である。
昨日は夜遅くホテルに着いたのでせっかくの高原リゾートホテルを楽しむことができなかった。せめて、朝のコーヒーをベランダで楽しもう。



自転車は120ユーロで新品のMTBを2週間借りることができた。MTBに自分のGPS、バックミラー、サドルバッグ、ライト、SPDペダルを取付る。
.


出発準備が整ったところで、参加者とサポートの通訳、運転手2人と記念撮影。



一応比較的若手(60才)で、GPSを持っていて事前にルート研究をしてあることから、初参加にも拘わらず、私が先頭を行くことになっていた。ガイドとコースを確認してホテルを9時に出発。所が、ホテルを出た所で、早速ミスコース。下り直線コースなのに先導する車が見えない。
万が一のことを考えて、日本から私の無線機を持ち込んでいたので(10年前は携帯はまだめずらしい、しかもセルビアの田舎では通じない。)先導車と連絡が取れ、無事コース復帰。



ベオグラード郊外と言っても、まだまだ山の中を走る。



ほぼ新品のレンタルMTBではあるが、やはり個人個人に合わせたセッティング調整が必要なので、農村の一角で休憩中に調整する。しごく調子の良いMTBに当たった私は、停まっているトラックターに勝手に乗車。



農家の周りには沢山の牧畜用と思われる麦わら。



大平原の中をうねうねと緩やかに上り下りする。


人家があまりなく、ましてやトイレが無い。女性も居るので、先導車に無線で連絡して、探してもらったのが、ここ、村の雑貨屋。ここでアイス休憩にして、トイレを使わせてもらう。



周りが牧草地とトウモロコシ畑の北海道のような大平原を走行する。


辛い登りも集団で登れば何とかなる。それに、疲れ果てたら後のサポートカーに乗ってしまうという手もある。


さあ、楽しいダウンヒル。発電所が見えると言う事は、あの辺りがサバ川で、あそこから平坦のはず。


サイクリング初日で、走行距離が100km近くなり、時間も5時になったので、団体走行は一旦ここで中止。


先行部隊は車でホテルにチェックイン。走り足りない9名は私のGPSを頼りに、ホテルまで、あと25km走ることにする。

今日走ったのは大体こんなところ。



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10年前の旧ユーゴスラビア自転車旅行記、走りつかれた夕食後、しかも
不安定なネット環境下で毎日記事UPしたので、手抜きの暫定版のままであった。
コロナで旅行もままならぬ10年後の2021年に、キチンと書き直してみた。
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  2011-06/04 ベオグラードで交流会
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平均年齢が60台半ば、70歳台も数人居るグループなので時差ボケをしっかり治し、体調を整えてからサイクリングを開始することとしていた。そこで出発3日目はセルビア人との交流会を企画した。私は、今回の走行ルート地図とセルビア語で日本から来たこと書いたポロシャツを着て参加。



内戦後で、しかもセルビアは情報宣伝戦に負け、悪者扱いされている為もあり、経済的には苦しく、まだ古い車が沢山走っている。旧ソ連圏で、Fiat124を原型に1960年代から作られ続けていたラーダがまだ現役で沢山走っている。



そんな古い車が多い街中に、内戦後の復興を支援する為の、日本のODAで導入されたモダンなバスが走っている。


日本に対する関心も高く、ベオグラード大学には日本語学科があり、我々の通訳もここの卒業生である。そんな繋がりを生かして、セルビアの学生と交流会を行う。



日本語を学んでいる学生の為に、マンガから村上春樹まで、多種多様の書籍を各人が3冊づつ持参して、日本語学科に寄贈した。


東日本大震災の記憶も生々しいので、学生たちに、被災地に向けてのメッセージを書いてもらう。これらのメッセージは夏に支倉常長の足跡を辿ると同時に、東北の被災地で写真展を開いた際に、会場に展示された。


続いて、日本語学科の生徒の援助も得つつ、繁華街に出て、セルビア一般市民からのメッセージも集める。


遅い昼食を取り、市内を見物した後、ホテルに戻り、荷物をピックアップ。今回、飛行機の制約から、ほとんどの人が自転車を持ち込めなかったので、レンタル自転車となるのだが、その自転車が到着し、今日泊まる郊外のリゾートホテル、Hotel babeに向かう。




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10年前の旧ユーゴスラヴビア自転車旅行記、走りつかれた夕食後、しかも
不安定なネット環境下で毎日記事UPしたので、手抜きの暫定版のままであった。
コロナで旅行もままならぬ10年後の2021年に、キチンと書き直してみた。
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  2011-06/03 時差ボケ修正 ベオグラード市内観光
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昨日の到着は夜遅かったが、まだ日本時間が体に残っていたので、バタンキューで寝入れた。その反動で早朝眼が覚めてしまったので、朝食前の散歩に出かける。通勤時間帯前、人々の交通手段は路面電車のようだ。ナビを持っているとは言え、言葉の通じないこの国で一人で電車に乗る勇気はちょっと無い。徒歩圏内にあるセルビア正教の大聖堂を見に行くことにした。



まだ内部を整備中であるにもかかわらず、多くの老若男女が熱心にお祈りをしている。
若い女性が何を祈っているのか、熱心に何回も十字を切っている。平和な風景だ。


一旦ホテルに戻り、朝食後、シルクロード雑学大学一同で市内散策。街中には小ぎれいなカフェも広がっている。



あれ?日の丸? 東日本大震災に対して、連帯の意志を表示する牛のモニュメント。



続いて東方教会の象徴、イコン博物館へ。





公園で昼食後は各自の自由行動となる。

ベオグラードはサバ川がドナウに合流する、戦略的要所であった。



合流地点の断崖の上には、幾度と無く要塞が築かれてきた。今は公園になっているが、要所に戦争の遺物が展示されている。


でも、大砲よりも、花なんじゃないかな。


ベオグラード要塞を見学した後、ガイドさんから場所を聞いておいたので、GPSを頼りに、コソボ紛争時のNATOによる国防省ビルの爆撃跡を見に行った。
現代のピンポイント爆撃技術を象徴するこの爆撃跡を(セルビア側、NATO側双方の)戦争の愚かしさの記念碑として残して欲しいものだ。


歩き回ったのはこんなコース。



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10年前の旧ユーゴスラビア自転車旅行記、走りつかれた夕食後、しかも
不安定なネット環境下で毎日記事UPしたので、手抜きの暫定版のままであった。
コロナで旅行もままならぬ10年後の2021年に、キチンと書き直してみた。
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  2011-06/02 成田⇒ウィーン⇒ベオグラード
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雨の成田をオーストリア航空OS-052便で予定通り出発。でも予定通り全てうまく行くとは限らないのが旅の面白いところ。

ネットの事前予約で、せっかく36Aという、椅子が倒せて一番後ろの2席しかない窓際の席を予約しておいたのに、ボーディングパスに印刷されていたのは23Aの席。機内に乗り込みボーディングパスを見ながら席を探すと、予想と違う真ん中あたりの席で、あれ、、、、



グループチェックインで、大勢一緒に処理したので、すでに予約の入っていた私の席も取り直してしまったようだ。


男性アテンダントに、証拠のeチケットを見せて、事情を話すと、何でチェックインカウンターで番号を確認しなかったんだと言いやがるから、頭にきて、 Are you saying it is my fault not to check the seat number? even though I did show the e ticket with my seat number to check in counter ! 
と大声を上げてしまった。反省、反省、猿のポーズで反省だ。

それ以外は、大したこともなしに無事ウィーンに到着。空港はWiFiがただなので、駄文をUP。

ああ、そうそう、機内食のデザートにナポリタン......なるものが出た。


封を開けたら普通のヘイゼルナットウェファーだった。

続いてベオグラード行に乗り換える。首都に向かうと言うのに、この小型機である。この小型機への乗換のせいで、私達グループの十数台の自転車運搬は拒否されたんだ。


シルクロード雑学大学の諸先輩には馴染みの、去年も泊まったホテル・カシーナで遅い夕食。


日本出発から実質1日半起きていたので、バタンキューで就寝。



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FunRide誌の瀬戸圭祐の 「快適自転車ライフ宣言」記事を見ていたら、最初は女性に目が行ったのだが、、、、、あれ?Bike Spainのジャージ、そして、自分で作ったので、すぐわかる、イタリア自転車旅行マップのジャージが写った写真に目が行った。


写っているの、自分ジャン!?
これこれ、このジャージですよ、写真に写っているのは、


スペインかポルトガルで撮られた写真なのだが、何時、何処で撮られたのか、とんと記憶にない。

記事をよく見ると、知った顔、知った自転車がいくつか写っていて、懐かしいね。

 



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シルクロード雑学大学の定例会があり参加。

その後、忘年会。今年もこれで終わりかな。



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サイクリングも終わり、帰国前日。午前中はホテルの駐車場で自転車の分解とパッキング。みなさん手際良く分解、梱包していくが、当方は2台の梱包なので2時間以上かかり、ようやく終了し、部屋に自転車を引き入れた。

歩き回っての観光も疲れたし、天気も良すぎて、暑いので、前日エイヤとグレイハウンドのクルーズを予約しておいた。集合地点のポンバル広場まで歩き、近くで昼食。バスで発見の碑近くのマリーナに到着。大きな船かと思っていたら、あにははらんや、8人乗りのヨットに、米、加、豪、日の4カップルで乗り合わせることとなった。



今はEDPの電気の博物館になっている火力発電所の横を抜け、テージョ川を遡行する。そう、ここは海ではなく、まだ川なのだ。



そよ風程度だが、帆を上げて。



4月25日橋が高くそびえている。



対岸には、ブラジル、リオデジャネイロにあるのと同じ、キリストの像。




橋をくぐれば、リスボン市街を海から眺めることができる。



逆風を遡るので、川を渡ってくる心地良い風に吹かれ、移り変わる景色を楽しむ。



出港していく、豪華客船。ここが川とは信じられない。



1時間程のクルーズの後、引き返す段になったら、船長が順風だし誰か舵を取れという。
他の3カップルは既にビールを数缶開けているので、素面の私が舵を取ることに。



左岸、4月25日橋の先の船着き場を目標に直線でとの指示だが、川の流れ、風の微妙な変化、波、そして、ヨットの慣性、、、で、微妙に舵を動かさないと直線を維持できない。
橋を越えたら、今度は右岸のベレンの塔目指して方向転換。



なんとか、30分程の操舵を全うすることができたのは、良い経験だった。

2時間のクルーズを楽しみ、陸に上がったら、売店に捕まりました。
ポルトガル製の可愛い孫の冬服。半年もすれば大きくなるだろう。



その後、市内に戻り、丘の上から、市街を眺めて、観光は終わり。





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