逆風に抗して Against the wind,♪ we are running against the wind.♪
ここではないどこかへ。モモンガーの旅
2018年に横浜から信州にUターン
自転車と日々の生活を
綴ります。
 



5月上旬に筋トレの一環として、スレッドミルで時速8km/hを20分走った。大腿骨骨盤骨折より7年間、走れるようになった喜びに浸っていたが、代償は大きかった。
翌日から足の付け根に鈍痛。どうも走った時のショックで剥離骨折か骨盤のどこかに小さな割れが入ったようだ。
米国旅行が迫っていたので、だましだまし歩いていたが、痛みが引かない。結局米国旅行の前半はロキソニンを飲んで痛みを誤魔化していた。
50日以上経過して、ようやく痛みも治まってきたので、今日筋トレに出かけた。
スレッドミルはご遠慮して、手足のマシントレーニングとエアロバイク2種類。
で漕ぎ始めてみると、パワーが出ない。3月頃は下図のように150W位で連続10分漕げたのに。


今日は連続だと100Wから110Wが限界。


この間旅行準備~旅行と痛みを理由に筋トレをサボっていたが、無理をしない範囲で再度筋力作りをやらねば。



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カーポート東側開口部を塞ぐ物置きの設置、構造体は組立完了したのだが、ドアとか、戸棚を取り付けないと完成しない。


意外と頭を使ったのが扉の取付け。図面は左開きなのだが、右開きにしたいので、組み立ててはやり直しが入る。ドア連動機構もあり、解ればすぐなのだが、、、、


物置きは棚板無しで買ったので、2X4と12mm合板で棚板取付け。


ふぅ、2日半掛ったが、ようやく組立完了。その後、大雨が降った時、屋根排水の水漏れした位置にシリコーンを充填して、完璧になった。



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地表に近く、錆びると、物置き全体がダメになってしまうのを避ける為、サンキン物置SK8の基礎金物にジンクリッチペイントを塗ってから再度組立てる。


基礎の上に床板を敷き、四隅のパネルを立て、中間横バーでつないでいく。一人作業なので、風でパネルが倒れないよう、一部支持棒で支える。


壁パネルを次々に組み立ててゆく。

 

屋根板と屋根フレームが入って、ようやく安定するようになり、一安心。


計算通り、袖屋根の雨樋下に5mmの差で物置きが入ってくれた。


これで、カーポート東側の開口部の半分は塞がった。


後はドアパネルを組み立てて、棚を付けて、完成。



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今日はお客さんとサイクリングに行く予定だったが、週末の天気がそれほど良くなさそうなので7/20に順延。とは言え、午前中は天気が持ちそうなので、走り出す。
ちょっと距離は短く、安曇野半周で行きましょう。空気が湿っていて、山は全く見えない。松本、安曇野方向もようやく視認できる程度。


季節が進んで、ラベンダーが咲き始めたようだ。


久しぶりの安曇野ワイナリー。家から1時間走った所で小休止。


夏蕎麦の花が一面に咲いている。


今日は午後から雨なので、松川村までは行かず、穂高で引き返し。
拾ヶ堰はとうとうと流れている。



途中で買い物などをして、2時に家に帰ると、しばらくして、豪雨。やはり今日一日サイクリングは無理だった。



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カーポートのガレージ化、壮大な計画はあるものの、なかなか先へ進まない。旅行中、砂塵が舞ったようで、車は埃だらけだったし、前に進めなくては。

4月にカーポートの東側に袖屋根を取り付けた
のだが、側面は依然解放のまま。5月には東側の側面の半分を埋めるべく、サンキンの物置SK8を購入してあったのだが、米国旅行で工事は延期していた。重い腰を上げて、基礎工事に取り掛かる。


今回は屋根のすぐ下に物置きを接続させる為に±5mmの精度で高さを決め、地面を突き固め、軽量ブロック9個を敷いて、水平を出していく。


箱から部品を取り出し、基礎フレームを組み立ててみた。

 

だがしかし、地表面ギリギリの湿気の多い場所に、一層の電気メッキ薄板鋼材では、10年もしたら錆びて、ボロボロになるような気がする。お値段は高いがジンクリッチの防錆効果はお仕事で経験済み。一度分解して、ジンクリッチペイントを塗ることにした。


さて、組立は明日。



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剥離骨折と思われる脚の痛みが始まって1ヶ月半、少しずつ痛みが和らいできた。筋肉が衰えてしまっているので、リハビリライドに出かける。

薄暗い森の坂を登り、


トンネルを抜ければ、


そこは桃源郷?の小曽部の谷。


近所の方が手入れしているのだろう、ルピナス、デージーに囲まれた小さなお地蔵さん。


以前見せてもらった大工さんの工房で軽トラハウスがほぼ完成していた。


一声かけて、内装などを見せてもらう。裏側の入り口ドア。


内部はベンチ、テーブルを片付けると下側のベット、そして、上側を展開すると、2段ベットになり、大人2人が余裕で泊まれる。


小さなシンクも付いている。


プロが作っているので、細かい所まで気配りができた仕上がりだ。
これでお値段はたったの45万円。ほしいけれど、肝心の軽トラが無い!!26年物のロードスターは売りたくないし、、、、、

さらに谷を遡って、人家の途切れた辺りで引き返すことにする。今日も隣村で熊が出たと防災放送が言ってたしね。


朝日村役場で昼食後、今度は朝日の谷を遡る。


ひと気のないキャンプ場の公園で一休み。


岩垂原まで、10km、信号無しの下りを楽しみ、



42kmのリハビリライドは終わり。




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5月の初めに数年振りにまともにランニングをしたら、骨盤骨折した部分の近傍にクラックが入ったらしく、米国旅行中もずっと古傷からの鈍痛が続いている。ただこのまま体を動かさないでいると、脚の筋肉が弱り歩けなくなる。骨盤骨折した時もサイクリングのお陰で、10k、20km歩いても平気な脚に戻れたのを教訓に、もう1ヶ月半過ぎたので、サイクリングで脚力回復をすることにした。

梅雨時とは思えない風もなく晴れ上がった今日、ご近所の花フェスタ目指し自転車を漕ぎだす。一直線のなだらかな下りの先が会場の松本空港。


黄色のポピーの向こうに後立山の連山。


バラ園は最近作られたものなので、品種も少なく、横浜の山下公園とか港の見える丘公園と比べると見劣りするけど、綺麗に咲きはじめてている。


セーラムで買った自分へのおみやげ、魔女ジャージを着て、メイン看板の前で。


西側の丘の方向も綺麗だが、まだあそこの上まで自転車を押し歩きで登る気力が無い。


と、そこに、花苗無料配布の声。無料に弱い私、即並んで、苗ゲット。


幸い、輪行袋他を入れたナップザックがあったので、綺麗に包んで背中に負い、帰宅することに。
朝は見えていなかった穂高岳も雲が切れて、良く見えるが、だいぶ雪が解けてきたようだ。



走ったのはたったの28km。でも右脚は少し良い感じになってきた。


あ、それから、調子の悪かったワイヤレスマウス。Win10の改定のせいか?と疑っていたが、よく見たら、スクロールホイールから髪の毛が飛び出している。エアーブローして調子回復。めでたしめでたし。



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 NH-1便でワシントン・ダレス国際空港から帰国。2ヶ月前に予約した時、行きはうまいこと、非常口後の出入りしやすい席(下図の赤い所)が取れていたのだが、



帰りのエコノミーはほぼ売り切れていて、通路側の席が取れず、真中の席しか残っていなかった。旅行前にANAのアップグレード入札の案内が来ていたので、帰国便のみ最低入札額を5千円上回る、2万5千円で札を入れて置いた。



ラッキーにもアップグレードが通り、プレミアムエコノミーで帰ってくることができた。毎日宿が変わる長い米国旅行の後で、席が広く、レッグサポートが上げられて足が伸ばせるプレミアムエコノミーはそれなりに快適でプラス5万円の価値はあった。


18日間の疲れもあるものの、足を伸ばして眠ることができ、元気に成田に降り立つことができた。さて、次の課題はトラベラーズチェック(T/C)の換金。海外旅行の際は、ほぼ使わないが、万が一のバックアップに10数年前に発行されたトラベラーズチェックをいつもスーツケースの底に入れていた。前回の旅行の際、免税店でTCを使おうとしたら断られた時はあまり気にもしなかったのだが、ここ数年、T/Cなるものは急速に使えなくなっていることに初めて気が付いた。ネットで調べると、空港の銀行の両替コーナーでも、扱わない所が大部分になっているらしい。ましてや、地方の銀行なんかでは換金不可能だ。なので、成田に降り立った時しかチャンスが無い。



成田で数ヶ所聞いたり、SIM他を米国設定から日本設定に変更してネットで調べた結果、発行元の三井住友信託銀行(シティーバンク日本を買収したんだったね)なら換金可能とわかり、窓口へ。でも、窓口の若い人はまごまごするばかり。ベテラン行員が後ろから出てきて、PCで発行番号etcを調べて、「ああ、これは当行で換金可能です」のご返答。待つこと15分ほど、何とか持っていた米ドルと日本円のTC15万円分を換金できた。
長野県への乗り合いタクシーの集合時間にも滑り込みセーフで、無事に帰ってこれた、長い一日?二日?だった。
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東海岸旅行の最後はの日は日曜日。甥夫妻も5年の駐在の間に、そこら中旅行してあるが、灯台下暗しでご近所のゲティスバーグは行ったことが無いと言うので、一緒に観光して回ることにした。

その前に甥のパートナーが学位を目指して勉強しているジョンズ・ホプキンス大学へ。医療関係者なら誰でも知っている、世界最先端のジョンス・ホプキンス大学病院。


その横に公衆衛生大学院がある。



バルチモアのダウンタウンにあるので、キャンパスは狭いが校舎や設備はブルームバーグ氏の寄付により、最新鋭の設備になっている。


続いて、郊外にあるジョンズ・ホプキンス大学のキャンパスへ。ここは医療関係以外の学部のキャンパス。


市内の公衆衛生大学院と比べると、広いこと、広いこと。


中心になる塔(キューポラ)がそこかしこにある。


卒業式も終わり、日曜日ということもあり、この広いキャンパスにひと気が無い。

続いて1時間半ほどドライブして、南北戦争の雌雄を決した激戦地、ゲティスバーグへ。




まず博物館で、奴隷解放、南北戦争の歴史を振り返り、それから、ゲティスバーグの戦闘とその後の歴史を見ていく。単発銃だった独立戦争の時より武器が進化し、連発銃になっている。



戦闘の推移を北軍陣地から眺めた360度パノラマが圧巻。南軍は北軍をほぼ(300度くらい)包囲し、しかも、戦闘初期には優勢だったのに、セメタリーヒルに立てこもる北軍を攻めきれず、敗退している。戦力の分散と集中の違い、補給線の確保の差が現れたのか?



この戦闘の数ヶ月後、この地に設けられた国立戦没者墓地で、リンカーンがかの有名な、「人民の、人民による、人民のための政府は、決して滅びることが無い」演説を行った。演説はたったこれだけの短い演説だったらしい。



博物館だけでは持った得ないので、戦跡と墓地を見学しましょう。



国立戦没者墓地にて。州ごとにまとめられた墓地。墓名の刻まれたものもあるが、私の目についたのは、Unknown。



リンカーンさんは、
The brave men, living and dead, ---- The world will little note, nor long remember what we say here, but it can never forget what they did here.
と言っているが、無名戦士は忘れ去られ、リンカーンの演説だけが、世に残っている。

these dead shall not have died in vain - that this nation, under God, shall have a new birth of freedom - and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth. 
この演説の素晴らしさ、その影響力の強さを否定するものではない。私も初めてこれを読んだ若い頃はこれこそ民主主義の持つ強さを現している句だと思ったものだ。だがしかし、年を取ってから無名戦士の墓を見ると、個人の意志や使命感はともあれ、彼等は have died in vain に思えてしまうのであった。
 
と、色んな感慨が頭を巡る中、ワシントンに向け帰宅。夕食後、ダレス空港近くのベストウェスタンに送りと届けてもらって、米国最後の観光は終わり。

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東海岸ドライブ旅行も2週間を超えるとさすがに疲れてきた。今日の観光はアナポリス一ヶ所のみで、いよいよレンタカーを返却する日だ。フィラデルフィア~バルチモア~ワシントンDC回廊の混雑したハイウェイを避け、半島状のデラウェア州経由でアナポリスに寄り、ワシントンDCに帰る予定だ。

ウィルミントンまでは道路も混んだが、そこからは高速道路に車が少ない。しかも有料区間なのに、有人の料金ブースが無い。帰国後、クレジットカード請求が来て、高速代が  Toll Charges: $5.60で ETC使用代のようなConvenience Fee: $5.95 だと。なんかなぁ、ETC使用代の方が高いと言うか、高速代が安いというか。
観光案内所で話を聞くも、デラウェア州では半島先端まで行かないと観光する所も見つけられそうも無いので、海を渡り、メリーランド州のアナポリスに向かう。



アナポリスの観光案内所の駐車場は数時間駐車可能だったので、車を駐車して、歩きとシャトルバスで観光することに。まずは聖アン教会を見たあとで、メリーランド州議会へ。



緩い坂を降りて、シティードッグに着くと、先ほど見てきた聖アン教会と州議会堂が見える。ここが観光地の中心かな?


中国人のやっている日本食堂があったので、昼食にする。久しぶりのツナロールとカリフォルニアロール他。

 
アナポリスと言えば海軍兵学校を見学せねば。31年前に一緒にケーススタディーをやったJCはここの卒業だったが、今頃どうしているだろう。

 
かなり歩き回ったら、やはり脚に来た。帰りはシャトルバスを捕まえ、駐車場に戻り、ワシントンに向かう。
ひとまずワシントン郊外、ノースベセスダのホテルにチェックインし、車内の荷物をすべて部屋にぶち込む。



平日なら、近所のハーツ営業所に車を返しておしまいなのだが、土曜日で午後は空港しか営業所が開いていない。デラウェアのガラガラの高速から一転、ワシントンの高速は4車線一杯だ。車の間を縫って、レーガンナショナル空港に向かう。


空港でワシントン在住の甥夫妻に拾ってもらって、彼の勤務先のIMFへ。今回東海岸旅行を計画したのは、5年前、彼がワシントンに赴任する時、一度は遊びに行くと約束していたから。来月には彼が帰任するので、やっと遊びに来れたわけなのだ。


土曜日なので、誰も居ないIMFの巨大オフィスを探検して回る。総会の開かれる会議室は改装中で、今は仮のこの部屋でIMFの全体会議とか、G20蔵相、国立銀行総裁会議などをやるのだとか。仮とは言え、部屋の後側には同時通訳室がある。


執務室を覗いて見ると、広い個室だ。日本に帰ったら、机を並べて、大変だろうね。

 
ノースベセスダに戻り、甥夫妻のアパートを見学後、夕食へ。
あまり観光しなかった一日。楽しかった旅行ももうすぐ終わり。走った記録の一部はこんな感じ。

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入社5年目の1978年の冬、国内で初めての高放射線環境/原子炉圧力容器内に入っての炉心構造物修理作業を終えた所で、原子力から水力に社内転職した。原子力の危険性とか、原子力技術に先が無いとか難しいことを考えた訳では無く、大きなシステムの中の一部分しか担当できないこととか、国内に仕事が限定されてしまうことのつまらなさから、1年後にはオーストラリアに長期駐在できるというエサにつられての社内転職だった。まあ、その時丁度公開された「チャイナシンドローム」に少しは影響を受けたかもしれないが。
所がその半年後にThree Mile Island原発(TMI)#2が炉心溶融を起こしてしまい、いろいろ悩んだ転職が正解だと思えるようになった。同期からの5年の遅れを取り戻し、一人でオーストラリアに行っても困らないよう、必死に勉強したのも良い思い出だ。

昨日ハーシーに宿を取ったのは、40年後のTMI原発を見てみようという野次馬根性からだった。
発電所入口でTMIを眺める。冷却塔から盛んに水蒸気が出ているので、#1は動いているようだ。


で、入口で止まっている私の車を追い抜いて、数台の車が構内に入っていく。守衛が居たり、ゲートがあるわけでは無いので、後に続いて、緊張しながらもサスケハナ川に掛かる橋を渡る。



すると、そこは原発の敷地の中、従業員用の駐車場であった。150m位先に見える原子炉建屋、タービン建屋まで歩ける場所だ。


ここまで入れるのか? 本当に良いのか? 銃を持った保安要員が走ってこないか? という不安を抑えて、駐車場を一周し、そそくさと車内から写真撮影して、TMI原発敷地内から離れたのであった。

さて、この後は、TMIからさほど離れていないアーミッシュの村へ。電気や自動車という近代の発明を拒否して、18世紀のままの生活している人々の村だ。観光用のステージコーチに乗り、Intercource(何てセクシーな名前なんだ!)の村を走る。


ノンビリと走る馬車だけかと思ったら、車は拒否しても、スピード狂はいるみたいで、牧場の中で、二輪馬車を飛ばしている若いアーミッシュも居るみたい。



文明を拒否しているとは言っても、農業収入に観光収入も沢山あるようで、家はピッカピカ。ドライブウェイに車が無いのと、電線が引き込まれていないだけの差かもしれない。


あ、もう一つ発見。ギアとチェーンも拒否しているので、自転車がなく、キックボードのような、脚蹴り2輪車が近所への足。でもなぁ、この車軸にはきっとボールベアリングが入っている。


村外からの車ともすれ違うが、一家でどこかに向かう家族の馬車とすれ違う。


一家が木陰で談笑しながら、小物や廃品のガレージセールをやっていたので、記念に刺しゅう付き枕カバーをゲット。


次のアーミッシュの村、Paradiseに向かうと、Covered Bridgeがあった。スタッドレスタイヤの無い、馬車で、雪の凍った橋は危ないものね。


21世紀から18世紀へのタイムスリップはこの位にして、今日の3つ目の観光地、Winterthur Gardenへ向かいましょう。ここはダンロップ家のお屋敷と広大な庭園が公園になっている場所だ。ガイドツアーバスに乗って、1時間ほど、庭園を周回する。2、3週間前なら、ツツジが満開で綺麗だったようだが、だいぶ南に来たので、もうツツジはほぼ終わり。


自動車の出現の前に作られた屋敷なので、敷地の中に、自家用の鉄道駅があったのだとか。


そこかしこに小さな(と言っても、巨大な)テーマの決まった秘密の花園風の庭があるようだ。


庭を回った後は、館も見学しなければ。増改築で複雑に続く本館。


内部は中世のお城風から、アールデコまで、よりどりみどり。


超巨大なサンルーム。木彫の鷲が羽根を広げている。

 

日常生活エリアは、豪華ではあるものの、華美ではない落ち着きがある。


でも、こんなダイニングで食事をしても、私には味が解からないだろうね。


再度外に出て、本館周辺の庭を歩く。


しかし、今日も長い距離を歩きすぎて、右脚が痛い。この辺りで、車に戻りましょう。


宿にチェックイン後、周りをドライブ。現役時代に来たことはなかったのだが、火力事業の東海岸の事務所が近くだったので、寄ってみる。グーグルマップにはあったのだが、最近、会社が左前なので、事務所は閉鎖したみたいで、看板が無くなっていた。


美味しい夕飯を食べて、

 

モーテルに戻れば、一面の夕焼け。明日は晴れそうだ。


原発も嫌だが、アーミッシュのように電気無しで生活するのも嫌だ。もちろん、ダンロップ一族のように、広大な館に住みたいとも思わないが、つつましく、あまり環境に悪さをしないように、生活したいと思った一日。走ったのは、こんな場所。

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東海岸旅行も2週間が過ぎ、そろそろ終盤へ。
今日は、フィラデルフィアの周縁で、それほど有名ではない観光地巡り、運河、ベスレヘムとハーシー巡りを計画した。デラウェア川を渡って、ニュージャージー州からペンシルバニア州へ。


デラウェア川の右岸脇に運河が作られ、馬引き船で、多量の物資輸送がされていた。欧州では長い期間使われていた運河も、鉄道の登場で、米国ではほんの数十年しか使われず、欧州のように観光地になることもなく放棄されている。


閘門の開け閉めは手動だったようで、まだ歯車機構が残っている。


川沿いの段丘斜面にブドウ畑、その内にワイナリーの看板。長野県のブドウにデラウェアという品種もあるので、ここは寄って行きましょう。


甘い白ワインを買って、さらに運河を辿る。やがて、運河から離れ、なだらかなリーハイバレーの丘陵地帯へ。次はクリスマスやサンタで有名なベスレヘムという町。モラビア出身者が建設した教会中心のメルヘンチックな町に行って見たいとの連れ合いのリクエスト。

で、丘を越えると突然地平線上に錆びた鉄の塊群が見えてくる。不覚にも気が付かなかったのだが、そう、ここはかっての米国第二位ベスレヘムスチールの本拠地だったんだ。


さらに近ずくと巨大な空気タンクが錆びたまま佇立している。



そして、その向こうには、鉄鉱石、コークスなどを炉頂まで運ぶローダーとさらに聳える高炉。


ロス近郊のカイザースチールの製鉄所跡は80年代に更地にされたので、見た時のインパクトはないが、ここはかって何万トンもの鉄を作っていた施設の一部がそのまま残っていて、圧倒される光景だ。
鍛造工場と思われるビルの横庭には、戦艦の大砲を作った、その当時は世界最大だったと思われる数千トン級の鍛造プレス。


かっては鍛造工場だったと思われる背の高いビル。ここで、戦艦の大砲や発電機、タービン軸が作られていたのだろうが、今はコーチの旗。


そう、工場の一部はアウトレットモールとカジノになっていて、中国人と米国人がショッピングとギャンブルを楽しんでいた。


う~ぅん、栄枯盛衰とは言え、今のベスレヘムに工場労働者の影はない。そう言えばビリージョエルが工場衰退を歌ったアレンタウンはこんな風に始まっていた。
♬ Well we’re living here in Allentown 
♬ And they’re closing all the factories down Out in Bethlehem 

あっ、感傷にばかり浸ってはいられない。最初の目的地、旧市街のクリスマスの町へ行かねば。でも、あるのは古い教会と、旅行者目当てのクリスマス用品のお店ばかり。


都合の良い駐車場もないので、さらに西進して、チョコレートの町、ハーシーに行きましょう。
ここも、かっての世界一のチョコレート工場は煙突が残るのみ。



ここで、チョコを作るより、より賃金の安い場所でチョコは作った方が儲かる。工場は縮小され、チョコ主題のテーマパークに変身していた。ハーシーチョコのグッズを売る売店はすごい人だかり。


工場見学はできないので、ディズニーランド風のライドで、牛乳、カカオからハーシーバーができるまでを見せてくれる。



ライドの後には、無料チョコを貰って、今日はおしまい。

しかし、もう、米国では物は作らなくなっていることを実感。これでは中産階級、工場労働者は消え行くばかりだ。ビリー・ジョエルのAllentownはこんな風に終わる。
♬ But they've taken all the coal from the ground
♬ And the union people crawled away
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
♬ And it's hard to keep a good man down. 
♬ But I won't be getting up today. And we're living here in Allentown

と走ったのは、こんなコース。フィラデルフィア外縁を反時計回りに走った一日。

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昨日、ウッドストックフェスティバル会場へ向かう途中、岩に乗り上げてオイルパンを割ってしまった現代エラントラはオーバニーに引き取られていったので、今朝は代わりの車を確保しなければならない。朝食を早めに済ませ、7時に人生初のウーバーを呼び、ハーツの営業所が開く7:30少し前にkingstonのハーツに到着。開門と同時にたった一人の営業所員を捕まえ、昨日の顛末を説明し、代車の依頼をする。
「洗車と掃除が終わってないが、車は有るよ!」とのこと。良かった! で、淡々と手続きを進め、内部の掃除だけしてもらって、車を受け取れることになった。(でも、その間に、来客一人、そして、電話でのレンタル申し込みもありで、あさイチ行動は正解!!)
借りられたのは、KIAのSoulというエラントラより少し小さい車だが、文句は言うまい。


ハドソン川を渡って、フランクリン・D・ルーズベルト邸/ミュージアムへ。


まずは、ミュージアムでFDRの業績をたどっていきましょう。朝一番だったので、80歳くらいのボランティアーのおじさん(名前を忘れてしまった)に45分ずっと説明してもらう。
大統領で3頭文字で呼ばれるのは、FDR、JFK、LBJ位か? それほど有名なFDRだが、このミュージアムはFDRを崇拝の対象とするのではなく、彼の業績の良い面も悪い面も公平に展示することだとおっしゃる。


幼少期に小児麻痺をわずらわったFDR。車椅子が手放せなかったらしい。



FDRの有名な三期目の演説、4つの自由に基づく、ノーマンロックウェルのイラストがここにもありました。



ただ、New Deal 政策にも関わらず、雇用や景気が回復したのは、第二次大戦のせいだったのかもしれない。



FDRの負の側面として、大統領令9066号による日系人強制収容も展示されていた。



で、ボランティアのおじさんに、FDRは日本の真珠湾攻撃を知っていたのではないか?米国民が欧州での戦いに参加することに躊躇しているムードを変える為に、奇襲を許したのでは?と癖玉を投げてみた。いや、そんなことはあり得ない、それは単なる陰謀説、FDRは海軍を愛しており、知っていればアリゾナをはじめとする戦闘艦が沈められるのを避ける行動をとったはずだ。との返答。まあ、私もFDRが日本の攻撃を知っていたとしても、真珠湾の事態は想像しなかったろうと思うのだが。

あ、でも、ここで、FDRの弁護を。展示を見るまで知らなかったがFDRの妻で代理演説者、エレノアがヒラリバーの強制収容所を訪問しているんですね。

続いて、FDR邸を見学。


邸宅の脇には、夫妻のお墓。


続いて、お隣にあるバンダービルド邸へ。ここは30年前にチラッと見たことがあるし、この次、ロックフェラー邸を予定していたので、ドライブスルーする。


で1時間半ほどドライブして、ロックフェラー邸カイカットへ。だが、しかし、今日は公開日ではないとのこと。せっかく来たのに、週4日しか開放していないんだ。


NYはもうすぐそこなのだが、車でNYに行くのは、キチガイざた。ハドソン川を又わたって、ニュージャージ側へ。


小学生の頃の私のヒーロー、トーマス・エジソンの研究所と発明工場をオレンジに訪ねた。


記念撮影をして。



当時のままに保存されている、エジソンの執務室へ。


この、アイディアや書きかけのメモ、素材、、、、が詰まった、この机で数々の発明がなされたんだ。


事務所の隣には、何でも要求のものを作ってしまう、工作室。電気モーターができたばかりなので、1台のモーターからベルト駆動で多数の工作機械を回している。



この他にも、化学実験室とか、エジソンを支えた付帯設備がすごい。
そしてもちろん、発明品の数々。タイプの違う試作電球。



電気アイロン。東芝マークの基になったTの伸びた文字。


そして、蝋管蓄音機。再生を実演してもらったが、電気なしで、力学的増幅のみで、ここまで大きな音が出たことに驚かされた。



丘の上のエジソンの家にも行きたかったのだが、ここも現在改修中で見学できず。時間も押してきたので、高校生の頃の憧れ、アインシュタインが研究をしていた、プリンストン大学へ。


他のアイビーリーグの大学と異なり、中心になる大きな塔のある建物が見つからない。ただ、広大な敷地の周辺部分に、多くの趣味の良い、邸宅が並んでいる。多分こう言った所にアインシュタインだとか、かの村上春樹がVisiting Scholar として住んでいたのかしら?


昨日見られなかった所も訪れたので、今日も300数十km走ることになった。
走ったのはこんな道。

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ウッドストックフェスティバル50周年の今年、ウッドストックの町から2時間かかると言われても、何も無いよと言われても、やはりフェスティバルの現場に行って見たい。はやる心を抑えきれず、ガソリン補給後、町(下図の黄緑色)を出た。後知恵で考えると、もうすぐランチ時間なのだから、ウッドストックの町で昼食を取っていれば、大惨事は避けられたのだが、、、。


Rockの聖地、ウッドストックフェスティバル会場を目指して、湖畔の平な道から、急な山道を登っていく。車は少ないが、前に白い車が見え隠れしているのを追って走る。登りが終わって、下りに入った途端、道路の真ん中に茶色い物体。動物かとブレーキを掛けたが、間に合わず。茶色の物体は岩(Big Rock)だった。車体の下に入った岩で、車をバウンドさせ、通過する。 やっちまったと、車を停め、タイヤの横から車体下を眺めると、油が漏れ始めている。携帯は? 山の中でアンテナマークは立た無い。マズイ、マズイ。パニックになりそうな表情を連れ合いに見せないようにして、エンジンに負担を掛けず、電波の届く所まで、坂を下ろう。と走りだして、数百メーター走ったろうか? 前を走っていた白い車もエンジンフードを開けて、停車しているではないか。(地図の黄色の地点)
慌てて、白のジープチェロキーの前に車を回したところで、Pポジションにしたら、ウォーニングランプ点灯、エンジンが止まってしまった。しかし、少なくとも、自分たち二人のみでは無くなったので、パニック状態は少し収まる。

先行していたチェロキーも岩に乗り上げたがものの、四駆で車高が高く、エンジンに異常は無さそう。ただ駆動系から異音がするとのこと。我々の車を押してもらい、路肩に停めてもらう。彼らは携帯電話の通じる所まで戻り、さらに自動車修理工場を見つけて、車をチェックしてもらうつもりとのこと。「そっちの車は動かないのだから、貴重品だけ持って、チェロキーに乗って町に戻ろう。」となった。



で、戻った先が上の地図の水色地点、Walt’s Auto。チェロキーの前で、車を眺める、修理工場のWalter Grabowskiさん、そして、真中の二人が私たちを助けてくれたRichard と John Repetti兄弟。 



車をリフトで上げてみると、アルミのアンダーカバー兼前トランスアクスル支え?に割れが入っている。



前を走っていた車がジープチェロキーだったので、エンジンが壊れずに人里まで帰ってこれたが、もし単独事故だったら、麓の携帯が通じる場所まで、10km以上歩かねばならなかった所だった。

ハーツに電話して事情を話すと、先ず事故報告書を警察から取れとのたまう。参ったなと思っていたら、Repetti兄弟も保険求償の為、事故報告書必要なので、警察を呼んだという。



ほどなく、所轄のOlive Policeがやってくる。私の車はここには無いので、ちょっと心配したが、パトカーの中でチャッチャと報告書を作ってくれる。


で、できた簡易報告書がこれ。正式報告書は上司の承認後、ウェブに載るのだそうだ。


警察が事故証明を作っている間、ウッドストックフェスティバルの会場目指して走っていたんだという話をしたら、なんと、助けてくれた、John Repettiさん、50年前、ベトナム戦争から無事に帰って2ヶ月後、退役して次の仕事を探している時、ウッドストックの話を聞き、3日間のコンサートに参加したのだそうだ。今回ウッドストックの現場には行けなかったが、事故のお陰で生き証人に会えて光栄だと冗談を言いながら自分を納得させたのであった。
よく見ると、アンダーアーマーの同じ色のフリースを着ている、John Repettiさんと一緒に記念撮影。


事故が11:30で、報告書ができたのが13:30。思ったより早く手続きが進んでいく。この分なら、レンタカーの交換もスムーズに行くと期待したのが、間違いのもと。

助けてくれたRepetti兄弟に散々お礼を言い、ジープのディーラーへと向かう、彼等を見送る。そしてハーツに再度連絡し、事故証明書はできたから、レッカーを派遣してと頼む。

で、待つこと2時間、15:30にAAAのマークを付けた、レッカーが来た。よし是で貴重品を持って、次の段階だと思ったのだが、、、


な、なんと、このレッカー車、車のある位置を聞いたら、そこは山の向こうで、我社の管轄外とか言って、我々を残して帰ってしまう。
ハーツの事故係につながりにくい電話を何度もして、レッカーが帰ってしまったが、一体どういうことだ、我々を見捨てるつもりか? 、、、、、
電波の届きが悪く、切れ切れで要領を得ない応答が30分ほど続いただろうか?突然ハーツの事故係から、事故車の傍らに借りた人間が居ないのがレッカー車が帰った原因だ、これから再度レッカー車を手配するので、レッカー代金$800必要だとのたまう。
携帯の繋がらない山の中で、レッカー車を待てと言うのか? いったいハーツの事故対応はどうなっているのか? こういう時の常套句、上司を電話に出してくれとしつこく要求するも、それには答えず。携帯の電池は無くなってくるし、、、、で、一旦電話を切る。

連れ合いからせっつかれ、もう少しで$800にOKしそうになったが、冷静になって考え直した。そうだ、JAFカードを持っている! ハーツでなく、AAAに電話して、レッカーが一度来たけど、ハーツとの契約か何かで問題があるようで、帰ってしまったが、私はJAFの会員、米国ではAAAのレッカーサービスを受ける権利があるはずだ。海外クラブコードは、、、。会員番号はXXX。ハーツと話しをして、壊れた車を引き取りに来てくれと申し込むと、何回かの堂々巡りを経た後、ようやくAAAがレッカーをだしてくれることになった。
その後、ボイスメールで、レッカーが出発しましたというメッセージが入るも、1時間待ても、2時間待ってもレッカーが来ない。

さすがに、この時は、困った顔をしていたら、Walt's Auto の Grabowskiさんが、タダと言う訳には行かないが、規定の距離料金なら$250位だから、私のレッカーで車を回収して、近所のKingstonにあるハーツまで運ぼう。Kingstonで宿を取り、明日、代車を入手しなさいとアドバイスされる。修理工場も閉める時間だし、暗くなり始めたので、仕方ない、そうしようと、Grabowskiさんのレッカーに乗って、山を目指した。
で、数分走っただろうか?あれ、青い現代車を乗せたレッカーがこちらに向かってくる。慌ててUターン。工場に戻ると、私の車がAAAの別のレッカーの上に載っている。


レッカーの運転手に聞くと、車のキーが無いので、山の中で載せるのに苦労したとのこと。だから、キーは私が持っているので、Walt's Autoに迎えに来いと、電話で言ったのに、、、、。で、どこまで車を持って行くのか聞くと、オーバニー空港のハーツデポだとのたまう。(もう地元のハーツは営業終了、ニューアークかオーバニー空港しか開いていない)そこまでついて行って、代車を受領して、またこちらに戻ったら、深夜を越えてしまう。さすがに、その体力、気力が無い。ハーツに電話して、キングストンで代車を用意してと頼むも、コンピュータ上ではキングストンに代車となりそうな車はある。ただ営業所はもう閉まっているので、確約はできない、、、、。

爆発しそうになる私を見かねて、Grabowskiさんが、俺が送って行ってやるから、Kingstonに宿を取り、明日朝、ハーツの営業所に行きな。あそこなら、ホテル、ハーツ営業所、レストランは2マイル圏内に全てあると助言してくれる。レンタカーからすべての荷物を取り出し、Grabowskiさんの車で、Kingstonに着いたのは夜の8時過ぎ。彼へのお礼、別の宿を取ったので宿のキャンセル代、、、は掛かったが、大Rockに邪魔されてRockの聖地は中断となった一日は暮れて行ったのだった。

Richard と John Repetti兄弟、そしてWalter Grabowskiさんという、本当に親切な米国人に助けられ、大惨事から脱出した一日だった。(あっ、Graboskiさんは18歳でポーランドから逃げてきたから半分のみ米国人か?)

一部走行軌跡は無いが、今日の走行記録は下記をダブルクリック。

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昨日はクラッシク音楽の聖地の一つタングルウッドを訪れたので、今日はロックの聖地の一つウッドストックを訪問し、最後にFDルーズベルト邸とバンダービルド邸まで行ければという計画だった。
脚の痛みも大夫収まり、ロキソニンなしでも動けるようになった。スプリングウォーターB&Bの朝食。出来立てのスコーンとか、モーテルの朝食と違い楽しく頂けた。

 

天気も良いし、昨日泊まった2階の部屋を後にさあ出発。


ハドソン川の支流を渡って、さらに高速を走り、先ずは聖地その1、ウッドストック近くのディランとバンドが合宿所兼録音スタジオにしていたビッグピンクを探し出しましょう。


高速を降り、ナビの言う通り、走っていたら、車もすれ違えないような、山の中の砂利道へ。本当にこの道で良いのかと不安が募る頃、


右を見ればジャケット写真で見慣れた建物が。知っている人は知っているビッグピンク。


The Bandの Music from Big Pink のジャケット写真にあるピンク色の建物の通称がビックピンク。


周りの木が茂ったのを除き、建物の雰囲気は50年前と変わっていない。
ここの地下室でボブ・ディランのBasement Tapesが録音されたんだ。学生の頃、ディランフリークが海賊版が出たと言って、買ってきたLPを聞いたっけ。その後出た正規版がこれ。



ロックの聖地とは言っても、私のような酔狂な奴が時々来るだけなので、目印も表示も何もない。ひと気も全くない辺りを少し散歩すると、少し離れた林の中に、70年代ヒッピー文化を引きずるような、トレーラーハウスとガラクタ置き場があった。


ビックピンクはウッドストックの町から少し離れた所にあるので、町へと向かった。で、町に着いたのだが、何か違う気がする。


50年前の1969年8月にウッドストックフェスティバルが行われ、その時のフィルムに近くの町が写っていたが、本当に小さな町だった。でもこの町は随分大きい。記憶の底に、フェスティバル会場はウッドストックからすごく離れた場所だというのを40数年前に読んだ記憶もおぼろげながらある。
街角の人に、ウッドストックフェスティバルの会場はどこなんだ?と聞くと、ずっと遠い所、車で2時間弱かかる。それに行っても何もないから、この町で遊んで行ったらとのたまう。
あれ、まぁ、ここで、ぐずぐずしていると、日が暮れてしまうと、すぐさま走り出したのが、間違いの始まり。ゆっくりランチでも食べて出かければよかったのに、、、、

と、大惨事の顛末は長くなるので、次のエントリーで。

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