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おかげさまで、毎日を元気に楽しく過ごしています。普段の出来事、思いつくことなどフリーの立場で記録したいと思います。

勤労感謝の日は父の命日

2013-11-23 11:07:28 | 日記

   11月23日は勤労感謝の日。祝日法では「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」ことを趣旨とするとある。今日の天気は、この日を祝うかのような小春日和。青空の広がる雲1つないすがすがしいよい天気。気分も晴れ晴れとなる。

  だが、私にとってこの日は、忘れられない暗い思い出の日でもある。67回目の父の立ち命日。昭和21年の今日、心臓麻痺で一晩だけ苦しみあっけなくこの世を去っていった父。亨年37歳。

  太平洋戦争が終わり1年が経過し、猛烈なインフレが襲ってきた。食糧は不足し、お金の価値は日に日に下がる時代。

 残されたのは母と、当時13歳、工業学校2年生だった兄を筆頭に4人の兄弟、それに父の母の6人。途方に暮れる長い苦労の生活の始まりだった。  

  当時、新円切り替えが施行されており、それに伴い預金は封鎖されていた。封鎖預金からの新円での引き出し可能な月額は、世帯主で300円、世帯員は1人各100円となっており、葬儀のお金が工面できない。

  幸い、父の勤めていた会社からの弔慰金が3千円。それと合わせて葬儀は社葬としていただいた。葬儀には会社関係者など沢山の人が出席された。

  まだ戦後の混乱期。今のように葬儀社はない。葬儀はすべて手作り、霊柩車の手配もできない。そこで考えられたのが会社のトラックの荷台に遺体を載せ、参列者もその荷台に乗れるだけ乗り、火葬場に向かうことだった。

  葬儀の日は、今日のように暖かい、小春日和。山の上にある火葬場に向かってトラックは這うように山を登って行く。そのトラック、ガソリンで走るのではなく木炭車。木炭を燃やして走る車だ。力は弱い。その時まだ10歳だった私、父の死の実感は薄く、なんとなく楽しかったような気でいた。 

  遠い昔のこと、だが忘れることのない出来事。昨日のことのように思い出す。

  今年のお盆、体調を崩しお墓参りが出来なかった。その分を含め一生懸命のお参りができた。お花と一緒に、生前、父が大好きだったお酒をお墓に供えた。

  11月3日の文化の日(当時は明治節)に新憲法が公布され、記念行事が盛大に行われた。その1つ、仮装行列に着飾った花嫁姿の父がいた。その写真がまだ若い父の最後写真となっている。